|
2006/01/08(日)
「神の召しにふさわしく歩む」大嶋博道牧師
|
|
|
新年礼拝[教会標語の学び](聖書)エフェソ4:1〜6 序 論: まず、「神の召しにふさわしく歩む」を今年の標語に掲げた理由をお伝えします。 @この時代の中で、神様はご自身の聖なるご計画を成し遂げるために一人一人を召しておられることを確認したい。 A神の召しにふさわしく歩むとはどういうことなのかを確認する一年でありたい。 B主に召されたキリスト者は神を中心(軸)にしてお互いの「一致を保つこと」の大切さを確認したい。 エフェソ4:1〜でパウロはエフェソの教会の信徒たちに「神の召しにふさわしく歩みなさい。」と勧めました。「召し」とは、いつもそこに「召して下さるお方」と「召される者」とがいます。また、「召し」の目的があります。私たちの場合は、召すお方は神であり、召される者は私たちであり、召しの目的は、私たちを神の民として、キリストのからである教会に加えて下さるということです。 本 論: 1:私たちは神に召されている。 「召されている」とはどういうことなのかを旧新約聖書に登場する人物から学びましょう。 @アブラハムの召し−創世記12:1〜4 Aイザヤの召し−イザヤ6:1〜8 Bパウロの召し−ローマ1:1〜7 これらの人物の召命物語には一つのパターンがあります。 (1)神に選び出され (2)聖別され (3)聖なるみ業を成し遂げるために神のみ前にあるということ。 私たちも神の御心を行うために神に呼び出され、聖別され、使命を果たすように神のみ前に立たされています。
2:「召しにふさわしく歩む」とはどういうことか? ふさわしいとは「それに値する」ということです。それにピッタリはまっている。 具体的にはどのような生活をすることなのか?パウロはエフェソ4:1〜3で4つのことを述べていま す。これらは相互に深い関係を持っております。 (1)謙遜ー謙遜とは、自分が謙遜であることすら意識しない心の姿なのです。 (2)柔和ーバランスのとれた中庸。「柔和」とは「自制」と同義語。 (3)寛容ー不屈の精神のことで、「報復する力がありながら報復しない精神」 (4)愛を伴った忍耐ー忍耐が現実に実を結ぶためには「愛」が必要です。 (5)一致−このような生き方をする人には平和があり、「一致」が生まれます。
まとめ: 「召された」私たちの生活の営みはそれぞれ異なっています。 ある人は社会で働くこと、ある人は家庭を守ること、ある人は地域でのボランティアや様々な活動をすること、学生はひたすら将来を拓くために学ぶこと、いろいろあります。大事なことは「神の召しにふさわしく歩む」ということです。 日曜ごとの礼拝生活、日々のデボーションを大切にしましよう。今ある仕事を大事にしましょう。家庭をぬくもりのある家庭にしましょう。人間関係を大切にしましょう。そして、罪の中に死にかけた魂の救いのために喜びをもって、希望をもって伝道しましょう。キリスト者であることに誇りをもって歩みましょう。 今年一年「私の召し」とは何かを問いながら、「召し」に値する生活をしたいと願います。祝福をお祈り致します。
|
|
|