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2006/10/29(日) 「あなたはどこにたつのか」大嶋博道牧師
 フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)エフェソ2:14〜21/ルカ15:11〜

序 論:
●私たちの住む社会は先行き不透明で、大変暗くて混乱を来しています。
航路には羅針盤が、車にはナヴィゲーターが、そして滑走路には管制塔があるように、私たちの人生を豊かなものとするためには、道案内人を必要とします。その道案内人の役割として、今のこの時代にどう生きたら良いのか、すなわち、私たちが立つべきところについて学びたいと思います。
 
今日のみ言葉には私たちの「立つべき場所」が示されています。それによると

@私たちは神の家族なのです〜即ち神に所属すると言うのが立つべき第1の場所です(19節)
A私たちは使徒(イエスの復活の証人)や預言者(キリストを信じ、そのみ心に添った生き方をする者)の土台の上に立っている(20節)と言う事です。

●創世記13章9節を見ると、神は約束を破って罪を犯して園の木の間に身を隠したアダムに向かって「あなたはどこにいるのか」と問いかけられました。
これは今日の私たちにも問いかけられているものです。
 この意味は、

@あなたは一体何をしたのか(あなたの存在価値を問われる)
Aあなたは何故今、ここに生きているのか(生きる意味と目的を問われている)
Bあなたは神とどういう関係にあるのか(人生を支える振弔・笋・・鹿届淋昭・埠暑uコ追崗柴藁圉聲竇就羊モ・拍・蜒◇w)皷・化逝れている。ヒ
Cあなたは今、喜びを感じ、感謝をし、平安がありますか、と問われている
Dあなたは罪を犯し、これからどう生きようとしているのか(どこに人生のゴールを定めているのか問われている)と言う意味があります。

本 論:
●では私たちはどこに立ったらよいのか。ルカ15章11節からの放蕩息子の物語からその事を学ぶ事が出来ます。

@その第1の事が17節にある「我に返る」事です。それは生きるべき原点に返る、と言うことです。人生にブレや歪みが生じた時には常に本心に立ち返り、生きる原点に返る必要があります。
Aそしてその第2の事は20節にある「神との正しい関係に戻る」と言う事です。ここでは息子は父との関係を正しいものに戻す事が出来ました。常に神と向き合って生きると言うことです。(礼拝者としてみ言葉に聴き、祈りをささげ、賛美を歌い、奉仕に勤しむ有り様。) そして
B第3の事はわたしたちの立つべき場所は「主の十字架」であると言う事を知る事です。十字架は私たちの罪の赦しであり、永遠の命、救いそのものなのです。

 さあ、私たち1人1人も自分の立つべき所に気づき、神のみ手の中で信仰生活を送りたいものです。

2006/10/22(日) 「祝福される安息日の守り方」畑中康雄勧士
(聖書)マタイ12:1〜8

今朝は安息日(聖日礼拝)について考えてみたいと思います。
12章はイエスの行われた事に対して、パリサイ人が非難し、それにイエスがお答えになると言う会話の形で説教が展開されている箇所です。ここではイエスは旧約聖書の例を語る事によって律法や戒めに細かな規定があるが、人の命が守られ、人が生かされるためには、その規定が破られる事がある、と言う事を語られたのです。つまり、律法に対する自由を語られたのです。
律法は本来人を生かすものなのです。それ故に現に生きている人間、特に困難、弱さの中にある人間に対しては律法からの自由は許される、と主イエスは考えられました。即ち「愛〜神の教え」は全てに優先する律法であり、愛は人間の欠乏・必要を満たさなければならない最優先の事項であると教えられました。

これらの事を私たちに良く理解させるためにイエスは更に次のように言われています。
@「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と。つまり、安息日は人のために神によって定められたもので、安息日の細かい規定を守るために人が存在するのではない」と言う事がその第1の事です。
Aもう一つ教えられている事は「人の子は安息日の主である」という事です。「人の子」とは「主イエス」の事です。人の子イエスはまた、神の子、イエスでもあります。このイエスが安息日の主であると言う事は「安息日のあり方を決める」のは主イエスであると言う事です。

さて、ここに1冊の本があります。その本は「明るい日本のクリスチャンホーム」と言う本です。
この本は、やむを得ない事情で聖日礼拝を守れない場合にどうしたら良いのか、ということを具体的に教えてくれています。日曜日に礼拝を守れない時には、一週間のどこかの時間帯で
礼拝を守るという礼拝に対する姿勢を持ちたいものです。
「日本における聖書的教会建設のために、今日の日曜日問題を適正に解決がなされねばならない」と言うこの本の最後の一行と「礼拝出席こそが最大の奉仕である」と言う私の信条をこのメッセージの締めくくりの言葉とさせていただきます。

牧師からのコメント
淀川キリスト教病院の柏木哲夫先生は、安息日の本来の語義「中断」すなわち「止めること」と述べています。すなわち、仕事や学び、家庭生活のためにこの世に向かっていた私たちの心を神に向けるために中断する日である、と言うのです。
「礼拝」は喜びと感謝をもってなされるべきもので、義務や習慣からなされるものではありません。主の復活を心から喜び、永遠のいのちをいただいた私たちが感謝をもって神に応答する日であります。日常生活が多忙で煩雑で心もからだも疲労しているからこそ、神に向かい、霊的いのちをいただく必要があるのです。

しかしながら、健康上の理由で、あるいは、やむを得ない仕事や学校行事や地域の働きや家庭の都合で礼拝に出られない時があります。そのような時には、まず最善を尽くして礼拝に出席するように努力をすることが大切です。礼拝に出ることが出来ない時には、主のみ前にひれ伏してゆるしを求め、自分と教会の祝福を祈り、心に平安を得てから自分のことを始めましょう。そして、土曜にでも月曜日でも、時間を見つけて教会に集い、み言葉を聴き、牧師に祈っていただきましょう。

神は6日間働いて、7日目には自分の仕事を離れて安息されたのです。神がです。ならば、人間はなおさらではないでしょうか!この世の働きを中断する勇気を持ちましょう。
礼拝をいのちがけで守ることは大きな祝福の基です。信仰生活の健全なリズムです。この原則を忘れないで信仰生活を送りたいものです。祝福をお祈り致します

2006/10/15(日) 「人生と苦難」江見太郎牧師先生
特別礼拝 (聖書)ヘブライ人への手紙12:5〜13

はじめに:
御教会へ温かく迎えられて心から感謝いたします。私は大嶋牧師のお父様の大嶋常治先生から導かれて洗礼を受けました。今、こうして皆様と共に礼拝を守ることが出来て嬉しく感じています。
本 論:
さて、人は何故苦しまなければならないのか、愛の神がいるのにどうして苦しみがあるのか?これは永遠の課題です。
イエス・キリストは「あなたがたはこの世では苦難がある」(ヨハネ16:33) と言われ、また、パウロも私たちの人生には試練があることを教えています。(1コリント10:13)と、同時に、試練と共にそれに耐えられるように「逃れの道(克服の道)」も備えられていることが語られています。
私たちが受ける苦しみ(病気・事故・災害・その他の苦痛を伴う出来事)にはどのような意味があるのでしょうか。幾つか紹介しましょう。

(1)人のまちがいを正すため
人が歩むべき道を誤っているときにその事を教えるために与えられる事があります。暴飲・暴食などをすれば健康を損ねて病気になることがあります。病気は暴飲暴食の間違いを教えてくれます。
人が苦しみ、痛みを感じない事は逆に言えば病んでいる事になります。苦しみ・痛みを感じる事は「正常」な証拠なのです。正常に立ち返る事が出来る証拠なのです。

(2)人間の無力さ、弱さを気づかせて、主に近づく事が出来るようになるため私たちはしばしば病気をしたり失敗や過ちを犯します。その都度、弱さを痛感し、人間の限界を自覚させられます。
ペトロは主イエスが十字架を前にした大事な時に、主を3度も否認しました。ペトロは自分の弱さを深く味わい、主の前に悔い改めました。このような失敗をとおして、神様は私たちに人間の弱さを教えておられるのです。

(3)他人を思いやることを可能にさせるため
病気や失敗の経験をとおして人は自分の限界を知り、他人の苦しみに気づくことが出来るのです。
悲しんだ者だけが人の悲しみを共感し、苦しんだ者だけが人の苦しみを理解できるのです。 
Tコリント10章12節には「立っているものは倒れないように気をつけるがよい」とあります。人は自分1人では立っている事ができません。そして、苦しみを知って初めて他の人の苦しみを知る知る事が出来るようになるのです。

ヘブライ12:5〜13にはキリスト者が受ける苦難の意味が記されています。子どもが健全に成長するために父から鍛錬を受けるように、主なる神は子として受け入れる者(キリスト者)を鞭打たれることがあります。私たちは鍛錬としてそれを忍耐しなければなりません。
また、苦しみは、「キリストが顕れる時に栄光を受ける事が出来る」ようになるために私たちの不純物を取り除くと言う作用があります。
ですから、私たちが今受けている苦しみを考えてみる必要があります。今の試練と苦しみがキリストの苦しみに近づける努力をする事が大切です。

私たちに対する父なる神の鍛錬は「義」と言う平和の実を結ばせるのです。「神は愛する者に万事を益とするようにと働いてくださる」と言うロマ8章28節の御言葉は真実です。   

2006/10/08(日) 「信仰を増して下さい」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ルカ17:5〜10

序 論:
 「信仰が強いとか弱い」、あるいは「信仰が厚いとか薄い」という言葉を耳にします。おそらく皆さんも、自分の信仰生活を振り返りながら、このようなことを考えることがあろうかと思います。
元々、「信仰」というのは私たちの目に見えないものです。形のないもの、手で触れることのできないものです。従って、信仰の大きさや重さを量ったり、他の人と比較したりする事はできませんし、する必要もないわけです。信仰はただ「ある」か「ない」だけのことなのです。
 
パウロはコリントの教会の信徒に信仰をもって生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい」(2コリント13:5)と述べています。今朝、私たちも自らの信仰のあるかないかを問いたいと思います。
 
 さて、今朝のテキストによりますと、イエスは弟子たちの「私どもの信仰を増してください」との願いに、「からし種一粒」の信仰があれば、桑の木が抜け出して海に根を下ろすことが出来るのだ、と言われました。そして、からし種一粒の信仰があればしもべのように、徹底的に主人の命令に従い、謙遜になって主人に仕えることができるのだと語られました。(ルカ17:5〜10)

本 論: 
では「信仰」とは何なのでしょうか。二つのことをお伝えします。
(1)神様との信頼関係ー向き合う関係です。
信仰とは神を信頼することです。聖書学者のシュラッターは「信仰者は神を仰ぎ見る。神の恵みに頼り、神がなさることにわが身を委ねる。そして、神の中に自分の平安と誇りと確信とを持つのである。」神様と向き合えば、このような「神への信頼」が生まれるのです。ただひたすら主イエスを一途に見つめながら(イエスから目を離さないで)歩みたいものです。

(2)ひたすら「しもべ」として低くされて生きる。
信仰に生きる具体的な姿は「しもべ」として低くされることです。イエス様の事例にあるように徹底的にしもべの姿で生きることです。(ルカ17:10)
また、ヨハネ13:1〜11によると、十字架を直前にしたイエス様は弟子たちの汚れた足を洗われました。「互いに足を洗い合う」ここにキリスト者の信仰に生きる姿があります。今年の教会標語にあるように「いっさい高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち」たいものです。(エフェソ4:2)

まとめ:
汚れた霊に取りつかれた子どもの父親は、イエス様に対して「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。」と懇願しました。それに対してイエス様は「できればというか。信じる者にはなんでもできる」(マルコ9:22〜24)と答えられました。するとこの父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と告白したのです。私たちが立つことのできる信仰の位置というのはここなのです。

2006/10/01(日) 「神の相続人」高橋虎夫牧師先生
献堂10周年特別伝道礼拝 (聖書)ローマ8:12〜17


はじめに:
献堂10周年の記念礼拝にお招きをいただき、心から感謝致します。
開拓から20周年、新会堂が完成して10周年を迎えられたとのこと、本当に神様のすばらしいみ業を賛美致します。牧師と信徒の協同の働きゆえと信じます。

☆神様は相続人を求めておられます。
 さて、今朝はローマ8:12〜17をとおして、「神の相続人」について学びたいと思います。
誰でも大切なものを持っていたら、それを愛する者に相続させたいと思います。
神様は世継ぎを探し求めておられるのです。
昔、ローマ帝国においては、父親は子どもに対して所有権と支配権を持っていました。
同時にそれは、やがて子どもにすべてのものを相続するというしるしでした。
しかし、子どもが一旦、父親の所有権と支配権から解放されて他の父親に変わると、その瞬間に元の父親から新しい父親に所有権と支配権が移され、同時に子どもに相続権与えられるという法律がありました。

☆信仰によって新しく生まれ変わると・・・
このことを今朝のテキストに当てはめますと、この世の支配の中にいた者が、神の霊に導かれて信仰によって神の子とされますと、その瞬間に父なる神の所有権と支配権の中に置かれ、同時に、神の国に相続権が与えられるのです。
 
  イエス・キリストがニコデモに語られたように、だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることができないのであります。(ヨハネ3:5)信仰によって新しく生まれた者だけが神の子とされ、すべての祝福を受け継ぐことが出来るのです。

☆この世(肉の世界)に勝る神の国(霊の世界) 
今まで、どのような罪の人生を歩んでいたとしても、イエス・キリストの十字架の贖いを信じる信仰によって罪が赦され、霊において新しくされて生まれ変わるのです。
この世(肉の世界)は一見すばらしく思えますが、神の国(霊の世界)は比較にならないほどすばらしく、栄光に満ちたものです。

☆「アッバ、父よ」と、神を呼びつつ 
私たちは信仰によって新しく生まれ変わり、神を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来る者にされました。私たちが神の子とされたのなら、その瞬間から神の所有と支配の中に置かれたことになります。それは同時に、神の「相続人」とされたことになるのです。

まとめ:
神様は私たち一人一人を何とかして「相続人」にしたいと切に願っています。
今朝、信仰によって新しく生まれ変わって神の子とされている確信を持ちましょう。そして、神の相続人であることを確信したいものです。祝福をお祈り致します。


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