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2006/10/08(日)
「信仰を増して下さい」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 (聖書)ルカ17:5〜10 序 論: 「信仰が強いとか弱い」、あるいは「信仰が厚いとか薄い」という言葉を耳にします。おそらく皆さんも、自分の信仰生活を振り返りながら、このようなことを考えることがあろうかと思います。 元々、「信仰」というのは私たちの目に見えないものです。形のないもの、手で触れることのできないものです。従って、信仰の大きさや重さを量ったり、他の人と比較したりする事はできませんし、する必要もないわけです。信仰はただ「ある」か「ない」だけのことなのです。 パウロはコリントの教会の信徒に信仰をもって生きているかどうか、自分を反省し、自分を吟味しなさい」(2コリント13:5)と述べています。今朝、私たちも自らの信仰のあるかないかを問いたいと思います。 さて、今朝のテキストによりますと、イエスは弟子たちの「私どもの信仰を増してください」との願いに、「からし種一粒」の信仰があれば、桑の木が抜け出して海に根を下ろすことが出来るのだ、と言われました。そして、からし種一粒の信仰があればしもべのように、徹底的に主人の命令に従い、謙遜になって主人に仕えることができるのだと語られました。(ルカ17:5〜10) 本 論: では「信仰」とは何なのでしょうか。二つのことをお伝えします。 (1)神様との信頼関係ー向き合う関係です。 信仰とは神を信頼することです。聖書学者のシュラッターは「信仰者は神を仰ぎ見る。神の恵みに頼り、神がなさることにわが身を委ねる。そして、神の中に自分の平安と誇りと確信とを持つのである。」神様と向き合えば、このような「神への信頼」が生まれるのです。ただひたすら主イエスを一途に見つめながら(イエスから目を離さないで)歩みたいものです。 (2)ひたすら「しもべ」として低くされて生きる。 信仰に生きる具体的な姿は「しもべ」として低くされることです。イエス様の事例にあるように徹底的にしもべの姿で生きることです。(ルカ17:10) また、ヨハネ13:1〜11によると、十字架を直前にしたイエス様は弟子たちの汚れた足を洗われました。「互いに足を洗い合う」ここにキリスト者の信仰に生きる姿があります。今年の教会標語にあるように「いっさい高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ち」たいものです。(エフェソ4:2)
まとめ: 汚れた霊に取りつかれた子どもの父親は、イエス様に対して「おできになるなら、わたしどもを憐れんでください。」と懇願しました。それに対してイエス様は「できればというか。信じる者にはなんでもできる」(マルコ9:22〜24)と答えられました。するとこの父親は「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と告白したのです。私たちが立つことのできる信仰の位置というのはここなのです。
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