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2006/11/26(日) 「神の祝福と人の感謝」大嶋博道牧師
収穫感謝礼拝 (聖書)詩編67編から


●今日は収穫感謝礼拝を守ります。神様が与えてくださる祝福と恵みに感謝を献げましょう。(収穫感謝の起源については週報のやすらぎの窓を参考にご覧になってください)
 
 さて、聖書には神様がすべての民を「祝福」してくださり、またすべての民が神に「感謝」を献げますとあります。ここで、「祝福」とは「産み出す力」と言う意味があります。創世記1章22節には「祝福して言われた」「産めよ増えよ」とあり、同じく創世記12章1〜4節にもアブラハムに対して「祝福する」と言う神様の約束〜産み出す力の約束があります。また、歴代誌上4章9〜10節のヤベツの祈りには「領土を広げ」「神が共にいてくださり」「災いから守り」「苦しみを遠ざける」神の祝福について書かれています。これは目に見える祝福です。

●一方、エフェソ1章3節には「霊的な祝福」が書かれています。霊的な赦しとしての祝福、永遠の救いの祝福、神の子とされた特権の祝福、魂の平安の祝福について書かれています。そしてこの祝福を得るには、この祝福の源である「神様を信じる信仰」が大切であります。

●では、私たちはこの神様の祝福に対してどのように応答していけばよいのかと言うことを学びましょう。
 それはどんな時にも心から感謝を献げる事です。
そのためには@先ず神様の祝福に気づかねばなりません。神様が与えてくださる祝福に気づかなければ私たちは祝福を得る事ができません。

そしてもう一つの大切な事はAその祝福に対して礼拝を献げる事です。即ち創世記26章25節に「イサクはそこに祭壇を築き、主の御名を呼んで礼拝した」とあるように神様に礼拝を献げる事です。「祭壇を気づき」「主の御名を呼んで」「礼拝する」のです。そのようにして静まって神様と向き合って感謝の祈りの時を持つことが大切な事である事を学びましょう。
 
「産み出す力」を与えてくださる神様の「祝福に気づき」、その事に「感謝して」、そして「神様に礼拝を献げる」と言う事が「神の祝福と人の感謝」と言う今日の収穫感謝礼拝の主題に対する答えなのです。私たち1人1人もその事に気づき神に祝福される信仰生活を送りたいと願います。  

2006/11/19(日) 「ただ一つの必要なこと」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ルカ10:38〜42

はじめに:
今日のメッセージの結論は「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言うガラテヤ5章6節のみ言葉です。
 忙しい毎日を送っている私たちにとって、今日のテキストにある「必要な事はただ一つ」と言うイエスの言葉の意味を学びたいと思います。私たちにとって「ただ一つの必要なこと」とは何なのでしょうか。共に考えてみましょう。

序 論:
 ルカによる福音書にあるマリヤとマルタの物語を文章通りに読むと、マルタの「この世の働き=接待(ディアコニア)」よりはマリアの「み言葉に聞き入る」事の方が善い事と受け取れますが本当にそうなんでしょうか。
この物語の前に聖書には善きサマリヤ人の物語があります。(聖書を読むときにはその前後の関係を合わせて読む事が大切です)ここでは「愛をもって隣人に仕える事の大切さ」が教えられています。この事からするとマルタの持てなしの行為は決して非難される行為ではありません。また、イエスは人を比較したり、どちらが善いとか悪いとか言われるようなお方でもありません。(元々、人間は比較したり競争するために生まれてきたのでもありません。)

本 論:
 42節ではマリヤはマリヤにとって「善い部分」を選んだと言うのです。(言語のギリシャ語では「良い方」ではなく「良い分」と書かれております。)「選ばれなかったもう一方が善くない事と言うのではなくて、マリヤにとって善い部分をマリヤ自身が選んだと言う事なのです。マルタの姿がいいのか、マリヤの姿がいいのかと比較することではないのです。
 
最も重要な掟についてマルコ12章28節以下でイエス・キリストは一途に主なる神を愛することと、同時的に、自分のように隣人を愛することを教えています。
「主を愛する」(マリヤ型)と「隣人を愛する」(マルタ型)と言うことになり、この二つは決して二つに分けることが出来ません。表裏一体をなすものです。

 わたしたちの生活も、教会での礼拝を大切にする部分と現実のこの世での中での生活がありますがこれも表裏一体で、決して分けることが出来ません。
 マリヤ型とマルタ型との生き方はどちらも大切でこれらが揃ってこそ、主のみ業が前進するのです。この二つの事は二つの事として選択の対象となるのではなくて、実際は一つの事柄です。主を愛し、隣人を愛する生活でなければなりません。

必要なただ一つのこととは、ひたすら「主の愛の中に生き続けること」なのです。
そして、神を愛するように隣人を愛するという生き方です。

2006/11/12(日) 「子どもを育む神」大嶋博道牧師
子ども祝福礼拝(聖書)出エジプト1:6〜21

序 論:
江戸時代の川柳に「大名を胴切りにする子安婆(こやすば)」というのがあります。
子安婆とは,現在の助産師(助産婦)です。何人たりとも大名行列を横切る事が許されなかった時代,子安婆だけは例外で、彼女たちは新しいいのちを取り上げるために、勇気を振り絞り,大名行列を胴切りしたのです。そして大名たちもそんな彼女たち咎めなかったのです。大名の権威も,人の命の前には一歩を譲ったというわけでしょう。
 旧約聖書の出エジプト記1章に登場するシフラとプワも時のエジプトの権力者ファラオ王に果敢に挑んだ助産婦でした。「イスラエル人の女性が男の子を出産する時には,その嬰児を殺せ」(1:16)との理不尽な命令に従わず、新しいいのちを取り出し、新生児と母親をひたすら保護したのです。

 助産婦たちはどうして赤ちゃんのいのちを守ることができたのでしょうか?
@神を畏れていた。(神に一途に信頼し、従っていたから)
A神より恵みを受けていたから。(賢いチエ(機転)を与えられていた)
B元より、いのちは人のものでなく、神の所有であることを知っていたから。
 私たちは、神が,どれほどの熱き思いで私たちの誕生を喜び,その人生を祝福しよう
としておられる事かを知らなければならない。(イザヤ書43章4節)
本 論:
今朝、私たちは「いのち」に関して幾つかのことを確認しておきたい。
(1)いのちの根源は神にある(いのちの所有者は天の父なる神)
 赤ちゃんや子どものいのちは親の所有でもなく、本人のものでもない。ただ神様から預かった貴いものなのです。創世記2:7にあるように、「神の息を吹き入れられて」人は初めて霊的な生きた存在となった。このいのちの所有者であり支配者は神なのです。
私たちは神から預かった人生を生きるだけです。(2)神はひたすらいのちを育まれる

(2) 「育む」とは守り、養い、支え、導き、大切に扱われること。どんないのちであっても人のいのちは「高価で貴い」のです。優劣をつけることはできない。神は私たちを「宝の民」と
された、ということを心に刻みたい。(申命記7:6〜8)

(3)神はいのちを貴ぶ人を祝福される
 昨今、人のいのちがどれほど軽視されているか、いい加減に扱われているかと深く思わされ、嘆く。虐待、いじめ、凶悪犯罪など。決してあってはならない。生まれてくる新しい
いのちを守り通したシフラとプワは後に「子宝に恵まれた」とあります。子宝とは家族・家のことで、単に子どもに恵まれただけでなく、おそらく生涯、家庭が豊かに祝福されたのであろう。人のいのちを育む者は、必ず恵まれ、祝福されるという証しであります。

まとめ:
 今、子どもの小さないのちは傷ついている。痛んでいる。今こそ、私たちは子どものいのちを守り、育んでいかなければならない。神様は豊かな愛をふり注いで子どもたちのいのちを育んで下さることを信じて、私たちも子どものいのちと向き合いたい。子どもが大人に成長する日まで!

2006/11/05(日) 「天の御国を望み」大嶋博道牧師
 召天者追悼記念礼拝(聖書)ヨハネ14:1〜6

●人間の本質は「弱さ」であり「もろさ」であり「いずれは消えていく」存在です。
人は何時かは「必ず死ぬ」と言う事は間違いのない真実です。この厳粛な死に私たちはどの様に立ち向かえばよいのでしょうか。
 今日は「永眠者追悼記念礼拝」なので、
@将来に何を望めばよいのか?
Aどのように生きれば良いのか、と言う事について学びます。

●私たちの最終的な目標をどこに置いたらよいのかと言う事について、フイリピ3章20節では「わたしたちの本国は天にあります」とあります。私たちの最終的な目標は天国だと言っているのです。私たちは天国に所属しているのです。
そしてその天国とは黙示録21章3〜4にあるように神が人と共に住み、悲しみも嘆きも労苦もないところなのです。

●ではどのように生きていけばよいのでしょうか。それは神と人とに正しく応答しながら真実に生きると言う生き方です。これが人生です。

具体的にはロマ12章9〜21節「キリスト教的生活の規範」に書かれている通りです。それは
@「互いに愛し、尊敬をもって生きる」生き方です(10節)A「怠らずに励む生き方」です(11節)
B「希望を持って生きる生き方」です(12節)
C「聖なる者たちの貧しさを自分のものとする」生き方です (13節)
D「迫害する者のために祝福を祈る」生き方です(14節)
E「喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣く」生き方です (15節)
F「すべての人と平和に暮らす」生き方(16〜18節)です。

●今日、お写真を飾って礼拝を守りましたが、このお一人お一人は弱き葦であると言う証人です。かって活躍されたお一人お一人も今は天のみ国で憩われています。
そのお一人お一人を偲びつつ、人は必ず死ぬと言う現実を克服するのは天国への希望を抱く事であり、そしてまた、それぞれの生涯をどの様に生きたらよいのかと言う事について今一度
考えてみたいと願います。


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