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2006/11/19(日)
「ただ一つの必要なこと」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 (聖書)ルカ10:38〜42 はじめに: 今日のメッセージの結論は「愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言うガラテヤ5章6節のみ言葉です。 忙しい毎日を送っている私たちにとって、今日のテキストにある「必要な事はただ一つ」と言うイエスの言葉の意味を学びたいと思います。私たちにとって「ただ一つの必要なこと」とは何なのでしょうか。共に考えてみましょう。 序 論: ルカによる福音書にあるマリヤとマルタの物語を文章通りに読むと、マルタの「この世の働き=接待(ディアコニア)」よりはマリアの「み言葉に聞き入る」事の方が善い事と受け取れますが本当にそうなんでしょうか。 この物語の前に聖書には善きサマリヤ人の物語があります。(聖書を読むときにはその前後の関係を合わせて読む事が大切です)ここでは「愛をもって隣人に仕える事の大切さ」が教えられています。この事からするとマルタの持てなしの行為は決して非難される行為ではありません。また、イエスは人を比較したり、どちらが善いとか悪いとか言われるようなお方でもありません。(元々、人間は比較したり競争するために生まれてきたのでもありません。)
本 論: 42節ではマリヤはマリヤにとって「善い部分」を選んだと言うのです。(言語のギリシャ語では「良い方」ではなく「良い分」と書かれております。)「選ばれなかったもう一方が善くない事と言うのではなくて、マリヤにとって善い部分をマリヤ自身が選んだと言う事なのです。マルタの姿がいいのか、マリヤの姿がいいのかと比較することではないのです。 最も重要な掟についてマルコ12章28節以下でイエス・キリストは一途に主なる神を愛することと、同時的に、自分のように隣人を愛することを教えています。 「主を愛する」(マリヤ型)と「隣人を愛する」(マルタ型)と言うことになり、この二つは決して二つに分けることが出来ません。表裏一体をなすものです。
わたしたちの生活も、教会での礼拝を大切にする部分と現実のこの世での中での生活がありますがこれも表裏一体で、決して分けることが出来ません。 マリヤ型とマルタ型との生き方はどちらも大切でこれらが揃ってこそ、主のみ業が前進するのです。この二つの事は二つの事として選択の対象となるのではなくて、実際は一つの事柄です。主を愛し、隣人を愛する生活でなければなりません。 必要なただ一つのこととは、ひたすら「主の愛の中に生き続けること」なのです。 そして、神を愛するように隣人を愛するという生き方です。
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