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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2006/02/26(日) 「主と山に登ろう」  西脇衛士勧士 
信徒礼拝 (聖書)ルカ9:28〜36
 
 聖書の舞台は、山にあると言っても良いのではないでしょうか。
 モーセはシナイ山において神と出会い、召命を受け、十戒を授与された。
 エリヤはカルメル山において偶像と戦い勝利した後、ホレブの山(シナイ山)において神の声を聞き、神の働きに出発した。
 主イエス様も山に登られ民衆に説教をされ、そこで弟子を選ばれ奇跡を行われ、また日々祈りの場とされた。

聖書と山とは深い関係がある。「われ山に向かいて目を上る。(詩編121:1)

日本にも山岳信仰なるものがあるように、イスラエルの人たちもまた山を神のおられるところと信じていた。
イエス様は自らの十字架への道を弟子たちに予告されて後、三人の弟子を連れて山に登られた。それはこれから起こること{十字架への道}について、弟子たちに知らせるためであった。この山において弟子たちに、三つのことを明らかにされた。

1.イエス様の真の姿を知った(ルカ9:29)
2.イエス様の十字架による救いの道は、律法と預言の成就である。(ルカ9:30〜31)
3.弟子たちがこれからの生涯でなすべきことは、このお方 神の子キリストのみ声に聞き従うことである。(ルカ9:35)

この聖書の箇所から私たちにも3つのメッセージがあります。

1.山に登らなければ見えない世界がある。(恵みの世界)
@日常生活の中に時と場所を聖別し、主と向かい合うこと。そこでみ言葉を通して主の恵み(主の愛・私のための十字架・慰め・励まし)を知る。
A自らの本姓(自らの弱さ・高慢さ・愛のなさ)を知り
B悔い改めへと導かれ
C日々新しくされていくのです。

2.山において主のみ声を聞き成長していく。
わたしたちは神のみ声を聞いて救われ、その救いを出発点として神の子として成長していくのです。それはキリストの内にあって{繋がれ}、キリストと共に(御霊に導かれて)キリストのみ姿に成長していくのです。(エペソ4:1〜3 13〜16)

3.主は日々私たちを山に招いておられる。
私たちも日々主と共に山に登り、主のみ声を聞かせていただき、成長していきたいと願います。イエス様の生涯は、わたしたちに対する招きの生涯であったと言っても良いのではないでしょうか。罪人を、病人を、悲しみ悩む人を、重荷を負っている人を招かれた。その招きに応え主の前に座り、み声を聞き悔い改めた人々が新しくされ、新しい人生を歩み出します。私たちも日々静まって主の山に登り、恵みをいただき新しくして頂きましょう。                 

2006/02/19(日) 「遣わされなくては」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)ローマ10:14〜15

●教会には二つの働き(使命)があります。その一つは「エクレシア−イエス・キリストによって集められた者として聖なる共同体を形成する事」であり、もう一つは「ディアスポラ−イエス・キリストの使命を委託されてこの世へと派遣され、この世のために
この世と共に生きる事」です。即ち日曜ごとの礼拝に参加してここからこの世に主の僕として遣わされていくと言うことです。マタイ10章1節と5節には、主イエスが神の国を宣べ伝えるために弟子たちを「呼び寄せ」、そして「派遣する」と言う出来事が
記されています。(その他、派遣に関する記録はヨハネ20:21,マタイ28:19,さらにローマ1:1など)

●今日のみ言葉ローマ10:14には「連鎖様式」を用いて「派遣される」ことの重要性が書かれています。すなわち、呼び求める(告白する)→それは信ずるから→信ずるのは聞くことによる→聞くことは宣教されるから→宣教は遣わされた者がいるから。
 イエス・キリストを呼び求める事、即ちイエスを信じて告白するためにはイエスの事を宣べ伝えるために派遣された人がいなくてはなりません。私たちも誰かからみ言葉を聞いたからこそ信仰の告白に至ったはずです。
 イエス・キリストの福音を宣べ伝えるためには情熱が無くてはなりません。何とかして家族を救いに導きたい、職場の同僚を教会に導きたいという情熱です。今、私たちが守っているこの礼拝が最高に祝福された場所であることを信じてこの所で学んだ事を熱心に熱意を持ってこの世に遣わされ、イエス・キリストを証しして欲しいと思います。

●1986年にひよどり台伝道所を立ち上げる時に、ある信徒の方から「牧師が何足の靴をすり減らすかがこの伝道所の今後に大きく影響する」と言われた事があります。それは自らの足をもって、どれだけの人々を訪問したりトラクトを配布したかが問われると言う事です。私の伝道の原点はここにあります。今も、どれだけの人々を訪ねて福音を宣べ伝えることが出来たかと言うことを大事にしながら日々伝道に努めています。

●さて、一人一人が遣わされた者として福音を宣べ伝えるために必要なことを幾つか述べます。
@何のためにと言う目的意識を持つ事(イエス・キリストの福音のために)
A派遣の主体は神ご自身であると言う事を知る事。
B宣べ伝えるためには神ご自身の働きが必要であると言う事を知る事。
C宣べ伝えると言う事は継続して行わなければならないと言う事を知る事。
D宣べ伝えるためには「賢さ」と「素直さ」が必要である事を知る事。
E宣べ伝えるためには神様の臨在が必要であると言う事を知る事。
 私の働きをとおして一人でも神様の救いにあずかる人が起こされれば、どんなに幸いでしょうか。神様は世の終わりまで私たちと共にいてくださると言う約束を信じ、遣わされた者としての恵みにあずかりましょう

2006/02/12(日) 「人生の導き」〜時のしるしを見極める 大嶋博道牧師  
聖日礼拝 (聖書)コヘレト3:1〜11

●私たちにはどのような「時」があるのか。いろいろな「時」について語られている「コヘレトの言葉(旧約)3章1〜11節」から、そしてミッシェル・クオストの散文「主よ、時間はあります」から学んでみましょう。
(ミッシェル・クオストの散文から)
「主よ、あなたは時間を超えていらっしゃるから、私たちが時間と苦闘してるのを見て、にっこりなさいます。あなたはご自分でなさっていることがおわかりだから、あなたがなさった時間配分に狂いはないでしょう。
 あなたは私たち一人一人それぞれにあなたがお求めになることをする時間をお与えになりました。
だから、私たちは時間を無駄に使ってはならないし、時間を浪費したり、つぶしてはならないのです。
時間はあなたからの贈り物だからです。しかも、過ぎ去る贈り物、保存の出来ない贈り物なのです。
 主よ、私たちには時間があります。たくさんの時間が・・・ 主よ、私は今宵、あれをする時間、これをする時間が欲しいとは思いません。あなたが私に下さった時間の中で、あなたが私にせよとおっしゃったことを心静かに行うことの出来る恵みを、ただ、それだけをあなたから頂きたいのです。」

本 論:
@私たちに対する神様の時の配分には狂いがない。神のなさる事は「時」に適っています。
人は「変化の中に〜変化する時の中」で生きています。それは「コヘレトの言葉」にあるように様々な変化があります。様々な「時」があります。しかし11節にあるように「神のなさる業は始めから終わりまで、全ての時に適う」ように彩って下さいます。すなわち、神様がなさる「時」の配分には狂いが無いのです。

A「時」は私たちにとっては「保存不可能なもの」なのです。「時」を蓄えておく事は出来ません。私たちが何歳まで生きようと私の人生の持ち時間には限りがあります。ですから、この時間を有効に使いたいのです。今、しなければならない事に全力を使いたいのです。そのためには自分の身の上に起こった事に全力を尽くして取り組み、喜んで自らの人生を引き受けて生きて欲しいのです。

B最後に、「時」のしるしを見極める事が必要です。自分の身の上に起こる予測しがたい出来事を通して神様は私たちに何を語りかけてくださろうとしておられるのか、その「時」を通して何を学び取ったら良いのか、神様のしるしを真摯に受け止める必要があります。その「時」を真摯に受け止め、神が支配されている「時」を忠実に生きる時に希望の未来が開けてくるのです。そのことは今までの歴史で明らかな通りです。

●神様は必ず「万事を益」としてくださいます。私たちに与えられている「時」を用いて、私たちに益となる事をしてくださると言う事を信じて生きていきたいものです。ヤコブの手紙4章15節の「御心であれば、生きながらえて、あのことやこのことをしよう」と言うみ言は真実です。「時」に対する正しい在り方です。

2006/02/05(日) 「ただ、謙遜」大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)フィリピ2:3〜10

●今年の教会標語「神の召しにふさわしく歩む」のふさわしく歩むあり方の第一に「謙遜」を挙げました。
謙遜に生きること、へりくだって歩むことほどむずかしいことはありません。そのことをイエス様はよくご存じで、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人のしもべになりなさい。
一番上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい」と教えられました。(マルコ1042〜43)
2000年前のイエス様の時代の弟子たちや多くの人々も、21世紀に生きる私たちも偉くなりたいとか一番になりたいとか人の関心を買ったり注目をあびたいという心理は同じであります。

●今日はフィリピ2:3〜10をとおして、「謙遜」について学びたいと思います。
アウグスチヌスは弟子の「キリスト教の教えで一番大切なことは何ですか」の問いに答えて「一に謙遜、二に謙遜、三に謙遜」と言いました。単に道徳的、倫理的な意味で謙遜になればいいと勧めたのではありません。彼の「謙遜」の背景にはイエス・キリストの「謙卑ケノーシス」(フィリピ2:5〜10)があったのです。イエス・キリストが神と等しくあることに固執せず、自分を無にして(これこそ謙遜そのもの)、僕の身分になり、人間の姿で家畜小屋にお生まれになられたこと、そこに「謙遜」の原型を見ることができます。
謙遜と訳されたギリシャ語「タペイノフロシュネー」は、自分を控えめに評価する、取るに足らない者と思う、
罪深く無価値な本来の姿に気づくことを意味します。

●では、私たちが謙遜を身につけるためにどうすればいいのでしょうか?
@人間は神によって作られた被造物であるということを知る事です。私の人生の主人は創造者なる神様です。
A人間存在は罪そのもの、その本質は弱さ、未完成であると言う事ことを知る事です。
B人間は神の恵みによらなければ生きてはいけないと言うことを知る事です。私は自らが今あるのはただ神の憐れみにより恵みによると心から信じます。
C人間は神の前に日々悔い改めなければならない存在であると言うことを知る事です。
Dそして最後に、共に生きる人たちが互いにその存在を認め合いながら共存・共生していかなければならないと言うことを知る事です。

大説教家を目指した司祭のマリオを背後から見守りながらずっと祈り続けた友人アンセルモの「祈りの姿」こそ、
私たちキリスト者の謙遜が何であるかを示しています。
今年一年、いや生涯をとおして「謙遜」に歩みたいと切に願います。祝福をお祈り致します。



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