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2006/02/05(日)
「ただ、謙遜」大嶋博道牧師
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総員礼拝 (聖書)フィリピ2:3〜10 ●今年の教会標語「神の召しにふさわしく歩む」のふさわしく歩むあり方の第一に「謙遜」を挙げました。 謙遜に生きること、へりくだって歩むことほどむずかしいことはありません。そのことをイエス様はよくご存じで、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人のしもべになりなさい。 一番上になりたい者は、すべての人のしもべになりなさい」と教えられました。(マルコ1042〜43) 2000年前のイエス様の時代の弟子たちや多くの人々も、21世紀に生きる私たちも偉くなりたいとか一番になりたいとか人の関心を買ったり注目をあびたいという心理は同じであります。 ●今日はフィリピ2:3〜10をとおして、「謙遜」について学びたいと思います。 アウグスチヌスは弟子の「キリスト教の教えで一番大切なことは何ですか」の問いに答えて「一に謙遜、二に謙遜、三に謙遜」と言いました。単に道徳的、倫理的な意味で謙遜になればいいと勧めたのではありません。彼の「謙遜」の背景にはイエス・キリストの「謙卑ケノーシス」(フィリピ2:5〜10)があったのです。イエス・キリストが神と等しくあることに固執せず、自分を無にして(これこそ謙遜そのもの)、僕の身分になり、人間の姿で家畜小屋にお生まれになられたこと、そこに「謙遜」の原型を見ることができます。 謙遜と訳されたギリシャ語「タペイノフロシュネー」は、自分を控えめに評価する、取るに足らない者と思う、 罪深く無価値な本来の姿に気づくことを意味します。
●では、私たちが謙遜を身につけるためにどうすればいいのでしょうか? @人間は神によって作られた被造物であるということを知る事です。私の人生の主人は創造者なる神様です。 A人間存在は罪そのもの、その本質は弱さ、未完成であると言う事ことを知る事です。 B人間は神の恵みによらなければ生きてはいけないと言うことを知る事です。私は自らが今あるのはただ神の憐れみにより恵みによると心から信じます。 C人間は神の前に日々悔い改めなければならない存在であると言うことを知る事です。 Dそして最後に、共に生きる人たちが互いにその存在を認め合いながら共存・共生していかなければならないと言うことを知る事です。 大説教家を目指した司祭のマリオを背後から見守りながらずっと祈り続けた友人アンセルモの「祈りの姿」こそ、 私たちキリスト者の謙遜が何であるかを示しています。 今年一年、いや生涯をとおして「謙遜」に歩みたいと切に願います。祝福をお祈り致します。
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