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2006/03/26(日) 「死に至るまで忠実に」大嶋博道牧師
年度末感謝礼拝(聖書)ヨハネ黙示録2:8〜11

序 論:
 年度末の礼拝に最もふさわしいみ言葉として示されたのが今朝、共に開いたヨハネ黙示録2:8〜11です。まず、「忠実」という意味をお伝えします。
 1 まごころを込めてよくつとめること。また、そのさま。
 2 内容をごまかしたり省略したりせずそのままに示すこと。また、そのさま。

 聖書においては「ピストス」というギリシャ語が使われています。新約聖書で67回使われており、忠実な、真実な、誠実な、信頼に値するという意味です。
 聖書は、キリスト者が忠実に生きることを求めています。それはイエス・キリストご自身が「真実なお方」だからです。(マタイ25:14〜30,ルカ16:10)

 では、スミルナの教会に当てられた手紙の中でキリスト者たちが求められている「死に至るまで忠実であれ」とはどういう意味なのでしょうか?
(1)文字通り私たちの生涯の終わりの日まで、全生涯を指しています。
(2)スミルナの教会が直面していたように、苦難や迫害や貧しさの極限状況の中で、です。今日の私たちに当てはめますと、計画が失敗したり、挫折した時にも、人生が思い通りにならない中にあっても、困難や苦しみの真っ直中に直面していても、ということです。

本 論:
 いったい、スミスナの教会は「死に至るまで忠実であれ」ということによって何を求められているのでしょうか? (2:1〜3:22に登場する7つの教会に語られている助言をとおして考えて見ましょう。)
 (1)常に初めの愛に立ち返る 2:4〜5
 (2)偶像(にせもの)に心を奪われない 2:14
 (3)常に目を覚ましている(霊的覚醒) 3:2
 (4)持っているもの(神の栄冠)を固く守る3:11
 (5)生涯を通じて信仰に熱く生きる(心が燃え続ける)3:15
 
 2005年度の一年間、教会も皆さんの家庭も個人も豊かに導かれ、守られてきました。特に、信仰生活に限って振り返ればいかがだったでしょうか?本当に忠実な歩みが出来たでしょうか?アルファでありオメガすなわち「初めてあり、終わりである」
お方が求めておられるのはただ「死に至るまで忠実である」ことだけです。そして、このような人には神の約束が与えられています。一緒に読みましょう。
 箴言28:20「忠実な人は多くの祝福を得る。」
 
 スミルナ教会の監督であったポリュカルポスの殉教の時の言葉を引用して終わります。
「私は86年間キリストに仕えましたが、 キリストは一度も私を裏切ったことはありません。わたしを救ってくださった主をどうして裏切ることができるでしょうか。」 「忠実に生きる」と
いうことの偉大さと貴さを深く教えてくれます。

2006/03/19(日) 「神の愛の完成者」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)ヨハネ一 4:7〜12

今朝のメッセージの結論はを申し上げます。私たちキリスト者は「神の愛の完成者」としの使命を与えられおり、互いに愛し合うことによってのみ、この使命を果たすことが可能である、ということです。

序 論:
@「神の愛」とは何か?それはどこに明らかにされているか? 
聖書は「神は愛だからです」(God is Love.)と証言しています。(ヨハネ一4:8)
「神の愛」とは私たちの罪が赦され、神と共に永遠のいのちに生きるためにイエス・キリストをこの世に遣わされたこと、このお方が十字架において贖いの死を成し遂げてくださったこと、つまり、神が私たちのために傷つき、痛んでくださったことです。(ヨハネ一4:10〜11)

A「神の愛を完成させる」とはどういうことか?
 私たち人間の愛は不完全です。しばしば条件付きであり、極めて変化しやすいものです。
神の愛は「完全」なものです。人間が補う必要がないわけです。しかし、神の愛は完全なものですが、私たちの中で「全うされる」のでなければ、それは未完成なのです。
神の愛を完成させるということは、神に愛された私たちが神の愛の担い手となり、神の愛を生活の中で実践するということです。

本 論:
神の愛を完成させるためには?
聖書は、神の愛が完成されるために必要なことを繰り返し述べています。
それは、「互いに愛し合う」ことです。(ローマ12:10,ヨハネ一3:11,3:23,4:7)
「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、・・・わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(1ヨハネ4:11〜12)

人を愛するとはどういうことか?
 愛することの基本は人を差別しないこと、人を裁かないこと、人を尊敬すること、人の話をよく聞くこと、人の必要を敏感に察知すること、報酬を求めず、すっきりした心で相手の最善を祈り、具体的に何か必要であればそれを無理のないところから提供することです。私の好きな言葉で言えば、真実に他者の必要に応答すること、これが愛することでありましょう。
 おそらくヨハネは、「兄弟姉妹」と呼び合うキリスト者がこのようなかたちで「お互いに愛し合う」ことこそ神の愛を完成させると確信していたのではないでしょうか。教会だけでなく、家庭や近隣や職場や学校においてもこのような愛をもって「お互いに愛し合う」ようになれば、神の愛は完成されるわけです。

まとめ:
神の愛の使者となったマザー・テレサ
 マザー・テレサという人は神の愛の使者として愛に生きた人です。
“平和も戦争も家庭から始まります。もし本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家族が互いに愛し合う事から始めていきましょう。もし喜びを広げて行きたいなら、まずひとつひとつの家族が喜びをもって生活することが必要なことなのです。困った時には手を差し伸べ、苦しい時には励まし、嬉しい時には、互いに手を取り合って喜ぶそういう人間関係を築きなさい。あなた方が互いに、愛し合い、高め合う時、そこに神の国が造られるのです。”
私たちは神の愛の運び手です!


2006/03/12(日) 「流れのほとりに植えし木」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)詩編1:1〜6

●詩編は約1,000年にわたる期間に王、預言者、祭司等によって作られた詩を集めたものです。それは、賛美・感謝・嘆願等の詩から成り立っています。初めて聖書を読んだ人々への「聖書をどこから読んだか」と言うアンケートによると「詩編から読んだ」と言うのが一番多かったと言うことです。それほど人々に親しまれておりまた、どこから読んでも私たちの心に入ってきて読みやすいのが詩編なのです。

●特に1編は「人生の道しるべ」について書かれています。是非読んで味わいたい箇所です。
「いかに幸いなことか 神に逆らう者の計らいに従って歩まず 罪ある者の道にとどまらず 傲慢に者と共に座らず」とある1節は神の道に従って歩む者の幸いを歌っています。また、2節には「主の教えを愛し その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあります。この後ろに「…はいかに幸いなことか」と1節に返ってきて読むとよくわかります。
「口ずさむ」ためには暗唱しておかねばなりません。私たちも「み言葉を」そして「賛美を」暗唱しておきたいものです。常にみ言葉を口ずさむ者〜み言葉に「のめり込む者」となりたいものです。
このような信仰生活を送っている人に対する神の答えはヨシュア記1章8節に「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすればあなたは、その行く先々で栄え、成功する」と書かれているとおりです。

●私たちがこのように神の言葉を口ずさむ時に神様の恵みがある事はこのように約束されているとおりなのです。「時がくれば実を結ぶ」と言うみ言葉を信じて日々み言葉を口ずさむ事が出来ますように「流れのほとりに植えられた木がやがて時が巡り来たれば実を結び、葉もしおれることがない」と言うみ言葉を固く信じて私たちもみ言葉の側に立つ事が出来ますようにと切に願います。

(メッセージの前に、10年間の長きにわたって日系就労者伝道の働きをされた天川先生がブラジルへ帰国されるご挨拶と日本での働きを通しての貴い証しをされました。感謝)

2006/03/05(日) 「弱さの針で繕う者に」大嶋博道牧師
総員礼拝(聖書)2コリント12:5〜10

序 論:
北原白秋の作詞で山田耕筰が作曲した「からたちの花」という歌があります。
「からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ。からたちのとげは痛いよ、青い、青い針のトゲだよ。・・・からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ。からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。」
北原白秋は、福岡県柳川の小学校に通っていたころを思い出しこの名曲を作詞したそうです。
人からキラわれるトゲが、少年の悲しみに耳を傾けてくれ「友」となったというのです。
 肉体に一つのトゲを与えられたパウロは、それを「誇り」とし、「自分の中の友」としました。聖書学者たちは、彼の病いが周期的な偏頭痛だとか、眼病(激しい痛みを伴う目の炎症)もしくはてんかん、マラリヤ熱ではないかと憶測しています。私は以前もお伝えしましたが、彼の病いは「ムチ打ち後遺症」の鈍痛ではなかったか、と推測しています。(根拠は11:24〜5)

彼は、最初、このトゲを取り去ることを願って祈り続けました。パウロほどの人が取り除きたいと祈るのですから相当の苦痛ではなかったかと思います。(12:8)
元もと「トゲ」と訳されたスコロプスは「妨げになっている杭」「有害な異物」を意味します。

本 論:
パウロは自らの病い対し、三つの正しい知識を得ることができました。
第1は、「高ぶることのないように与えられたトゲ」(7節)。
“高ぶる”とは、「上へ持ち上げる」との意味をもつ言葉です。あるべき姿より、自分を高く見せたいとする傲慢な姿です。それを防止するための病いであるとの理解です。(12:7)

第2に、病い、弱さの中にあってこそ、神の恵みの事実がハッキリとしてくる(9節)。
「わたしの恵みはあなたに十分である」ー「あなたはわたしの恵みで十分だ」外見的には醜く呪いとみえても、見えない部分において力強い神の働きがなされているというのです。パウロが第二コリント4章7節で、「土の器」と言っていることもこれと同じです。器に例えるならば、パウロは自分が素焼きの値打ちのない器であることを承知しています。しかし彼は、自分が土の器であることを喜んでいます。その器の中に主イエス・キリストが内在されるからです。

第3に「キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで弱さを誇る」 ということ。 うちに宿るというギリシャ語の「エピスキアゾー」は“おおう”とか定着するという意味で「上の方にテントを張る」との言葉。弱さをスッポリと包んでしまうキリストの覆うような力に中に包まれることです。「弱さを誇る」とは不幸を自するのことでなく、キリストを誇ることなのだ。

まとめ:
島崎光正の選詩集に「君の弱さの針はこの世の破れと痛みを繕い、皮衣のように生涯を編んだ」というのがあります。「弱さの針」が世の破れと痛みを繕うのだという、この表現は「私は弱いときにこそ強い」というパウロの言葉を深く理解し、味わい直すことを促してくれます。
弱さの針が破れと痛みを繕う、まさにイエス・キリストの恵みにおいて成り立つ奇跡です。

 


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