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2006/03/19(日)
「神の愛の完成者」大嶋博道牧師
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聖日礼拝(聖書)ヨハネ一 4:7〜12 今朝のメッセージの結論はを申し上げます。私たちキリスト者は「神の愛の完成者」としの使命を与えられおり、互いに愛し合うことによってのみ、この使命を果たすことが可能である、ということです。 序 論: @「神の愛」とは何か?それはどこに明らかにされているか? 聖書は「神は愛だからです」(God is Love.)と証言しています。(ヨハネ一4:8) 「神の愛」とは私たちの罪が赦され、神と共に永遠のいのちに生きるためにイエス・キリストをこの世に遣わされたこと、このお方が十字架において贖いの死を成し遂げてくださったこと、つまり、神が私たちのために傷つき、痛んでくださったことです。(ヨハネ一4:10〜11)
A「神の愛を完成させる」とはどういうことか? 私たち人間の愛は不完全です。しばしば条件付きであり、極めて変化しやすいものです。 神の愛は「完全」なものです。人間が補う必要がないわけです。しかし、神の愛は完全なものですが、私たちの中で「全うされる」のでなければ、それは未完成なのです。 神の愛を完成させるということは、神に愛された私たちが神の愛の担い手となり、神の愛を生活の中で実践するということです。
本 論: 神の愛を完成させるためには? 聖書は、神の愛が完成されるために必要なことを繰り返し述べています。 それは、「互いに愛し合う」ことです。(ローマ12:10,ヨハネ一3:11,3:23,4:7) 「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、・・・わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。」(1ヨハネ4:11〜12)
人を愛するとはどういうことか? 愛することの基本は人を差別しないこと、人を裁かないこと、人を尊敬すること、人の話をよく聞くこと、人の必要を敏感に察知すること、報酬を求めず、すっきりした心で相手の最善を祈り、具体的に何か必要であればそれを無理のないところから提供することです。私の好きな言葉で言えば、真実に他者の必要に応答すること、これが愛することでありましょう。 おそらくヨハネは、「兄弟姉妹」と呼び合うキリスト者がこのようなかたちで「お互いに愛し合う」ことこそ神の愛を完成させると確信していたのではないでしょうか。教会だけでなく、家庭や近隣や職場や学校においてもこのような愛をもって「お互いに愛し合う」ようになれば、神の愛は完成されるわけです。
まとめ: 神の愛の使者となったマザー・テレサ マザー・テレサという人は神の愛の使者として愛に生きた人です。 “平和も戦争も家庭から始まります。もし本当に世界平和を願っているなら、まず自分の家族が互いに愛し合う事から始めていきましょう。もし喜びを広げて行きたいなら、まずひとつひとつの家族が喜びをもって生活することが必要なことなのです。困った時には手を差し伸べ、苦しい時には励まし、嬉しい時には、互いに手を取り合って喜ぶそういう人間関係を築きなさい。あなた方が互いに、愛し合い、高め合う時、そこに神の国が造られるのです。” 私たちは神の愛の運び手です!
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