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2006/03/05(日)
「弱さの針で繕う者に」大嶋博道牧師
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総員礼拝(聖書)2コリント12:5〜10 序 論: 北原白秋の作詞で山田耕筰が作曲した「からたちの花」という歌があります。 「からたちの花が咲いたよ、白い白い花が咲いたよ。からたちのとげは痛いよ、青い、青い針のトゲだよ。・・・からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ。からたちの花が咲いたよ。白い白い花が咲いたよ。」 北原白秋は、福岡県柳川の小学校に通っていたころを思い出しこの名曲を作詞したそうです。 人からキラわれるトゲが、少年の悲しみに耳を傾けてくれ「友」となったというのです。 肉体に一つのトゲを与えられたパウロは、それを「誇り」とし、「自分の中の友」としました。聖書学者たちは、彼の病いが周期的な偏頭痛だとか、眼病(激しい痛みを伴う目の炎症)もしくはてんかん、マラリヤ熱ではないかと憶測しています。私は以前もお伝えしましたが、彼の病いは「ムチ打ち後遺症」の鈍痛ではなかったか、と推測しています。(根拠は11:24〜5) 彼は、最初、このトゲを取り去ることを願って祈り続けました。パウロほどの人が取り除きたいと祈るのですから相当の苦痛ではなかったかと思います。(12:8) 元もと「トゲ」と訳されたスコロプスは「妨げになっている杭」「有害な異物」を意味します。 本 論: パウロは自らの病い対し、三つの正しい知識を得ることができました。 第1は、「高ぶることのないように与えられたトゲ」(7節)。 “高ぶる”とは、「上へ持ち上げる」との意味をもつ言葉です。あるべき姿より、自分を高く見せたいとする傲慢な姿です。それを防止するための病いであるとの理解です。(12:7)
第2に、病い、弱さの中にあってこそ、神の恵みの事実がハッキリとしてくる(9節)。 「わたしの恵みはあなたに十分である」ー「あなたはわたしの恵みで十分だ」外見的には醜く呪いとみえても、見えない部分において力強い神の働きがなされているというのです。パウロが第二コリント4章7節で、「土の器」と言っていることもこれと同じです。器に例えるならば、パウロは自分が素焼きの値打ちのない器であることを承知しています。しかし彼は、自分が土の器であることを喜んでいます。その器の中に主イエス・キリストが内在されるからです。
第3に「キリストの力が私のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで弱さを誇る」 ということ。 うちに宿るというギリシャ語の「エピスキアゾー」は“おおう”とか定着するという意味で「上の方にテントを張る」との言葉。弱さをスッポリと包んでしまうキリストの覆うような力に中に包まれることです。「弱さを誇る」とは不幸を自するのことでなく、キリストを誇ることなのだ。
まとめ: 島崎光正の選詩集に「君の弱さの針はこの世の破れと痛みを繕い、皮衣のように生涯を編んだ」というのがあります。「弱さの針」が世の破れと痛みを繕うのだという、この表現は「私は弱いときにこそ強い」というパウロの言葉を深く理解し、味わい直すことを促してくれます。 弱さの針が破れと痛みを繕う、まさにイエス・キリストの恵みにおいて成り立つ奇跡です。
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