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2006/04/30(日) 「安息年とヨベルの年」 畑中康雄勧士
 信徒礼拝 (聖書)レビ記25:1〜12

 旧約聖書に記された安息年やヨベルの年が現代に生きる私たちにとってどのような意味があるのかを学びたいと思います。

●7周年目の「安息の年」には奴隷の解放とか農地の休耕とか債務の免除が行われていました。
一方「ヨベルの年」は50年目に守られたもので、現状回復を理想とし、すべての売却した物の所有権を元の所有者に取り戻す事を規定した律法です。ヨベルの年の律法は富の偏在を正し、土地の所有権の無制限な膨張を禁止し、富の均等分配を強調した律法なのです。このこと私たちとはどんな関係があるのでしょうか。それは「あなたがたはおのおの先祖伝来の所有地に帰り家族のもとに帰る」とあるように私たちが本来居るべきところに戻れと言う教えです。

●そのためには4つの「和解」が必要です。
@それはまず「自分自身との和解」です。自分自身の中にある「弱さ」「不安」「矛盾」「障害」「疲労」「病」などと向き合い、祈りのうちに自分自身を神様におゆだねする事です。

A第2には「家族や家庭、共同体との和解」です。家族や家庭や共同体は私たちの癒しと安息の場なのです。み言葉を中心にした家庭や共同体が私たちに安息と希望を与えられます。

B第3には「隣人との和解」です。み言葉には自分たちが奴隷として苦しんだ民族の歴史に立って「貧しい者」「寄留人」との在り方について教えがあります。

C第4の和解は「自然との和解」です。自然に感謝しそしてその自然と調和ある生活を送ることが大切です。

●主なる神が私たちに示してくださった私たちの解放の道筋は「神との和解」こそが私たちを癒し、安息と希望を与えてられる救いの道だと言う事です。キリストが大きな代価を支払って天国を私たちに買い戻してくださったと言う「イエスの十字架」を信じる事です。全てを精算して、私たちの負債をゼロとして、全ての重荷から解放するヨベルの教えに隠されているものは「イエス・キリストの十字架による罪からの解放の約束」ではないでしょうか。
 日々キリストの十字架のあがないにより私たちの罪をゼロにリセットしてくださるこのみ言葉から私たちは罪の赦しへの望みを抱き日々新たにしてくださる神様に感謝したいと思います。         

2006/04/23(日) 「わたしを愛しているか」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝(聖書)ヨハネ21:15〜19

●「わたしを愛しているか」と言う問いは私たちの心の本質に触れる問いです。
失敗や挫折などで悩んでいる人はこのみ言葉によって慰めを得るでしょう。
 
  さて、21章1節以下によると死者の中から復活されたイエスが弟子達と朝の食事をされていました。その時にイエスがペテロに対して「わたしを愛しているか」と問われました。今日はその意味について学びます。

●イエスはペテロに「何故私を知らないと言ったのか」と問われないで「他の誰よりもわたしを愛しているか」と問われました。これはペテロを生かす言葉です。
ではこのイエスの問いにはどんな意味があるのでしょうか。

●その第1の意味は、イエスとペテロの真実な交わりの回復を意味します。
イエスを裏切ったペテロは多分イエスと出会いたく無かったでしょう。その場から消えてしまいたい思いだったと思います。でも、イエスはペテロを特別な存在として認められていました。
 3度も同じ事を問われたのは、ペテロが3度イエスを知らないと言ったことに対するお返しではなく、イエスとペテロの交わりの回復に必要な回数でした。
そして、ペテロは「はい。愛しています」と応えずに「…わたしがあなたを愛していることをあなたは良く知っておられます」と答えています。お互いが深く理解し、信頼を取り戻す事、無条件で赦し合い、お互いが認め合う事が必要です。
「わたしを愛しているか」というイエスの問いは、イエスとペテロの一度失った交わりの回復、信頼の回復のために適切な問いでした。

●ペテロの再召命(ペテロが再びイエスの弟子としての働きを始めるため)が第2の意味です。マルコ1:16〜18が最初の召命だとすると、この箇所はペテロの再召す命ということになります。
「ペテロよ。私のためにお前の命を使ってくれるか」とイエスは問われたのです。それは「わたしの羊を飼いなさい」と17節にあるみ言葉が物語っています。

 私たちも、日々イエスから「わたしを愛しているか」と問いかけられています。
日々、新たにされ、私たちの最善を尽くしてこの問いに応える人生を送りたいと願います。

2006/04/16(日) 「希望の旅路の同伴者」大嶋博道牧師
イースター記念礼拝(聖書)ルカ23:28〜35 

序 論:
 私たちは科学的、医学的、教育的に、そして物質的、経済的に大変恵まれた生活をしています。また、大人も子どもも「生活に隙間がないほど」忙しく過ごしています。みんな幸せで豊かそうに見えます。しかし、これだけ恵まれた生活をしていても、現実に私たちの心を支配しているものは閉塞感であり、空虚感、不安感、そして孤独感でありましょう。心に喜びがなく、感動がなく、愛がなく、夢がないと言えるのではないでしょうか。つまり私たちのうちにある「いのち」が輝いてない、燃えてないということです。
 
 今朝の聖書のテキストは、これだけ豊かに恵まれているのに「何かが足りない」と感じている私たちに、その「何か」をはっきり示し、それを手に入れる方法を教えています。
  著者ルカは復活の出来事を記したあと、他の福音書記者とは違う角度からある物語を伝えています。それは「失意の中でエマオへの旅路に向かう二人の弟子」のことであります。ルカはこの出来事に触れることで「復活の意義」を伝えたかったのでしょう。
 出来事を一言で述べると、イエスの十字架の死の直後、失意と悲しみの中でエマオへの旅をしている二人の弟子が復活のイエスに出会って、心が燃える思いでエルサレムにUターンしたということです。

本 論:
 この物語から、復活されたイエス・キリストと共に歩む人生にはかけがえのないすばらしいものが与えらることを学びましょう。

(1)本当の喜びが与えられます。(本当の喜びとは状況や条件に左右されないもの、溢れるばかりの喜びです。)
(2)明日への希望が与えられます。(明日を期待して待つ−これが本当の希望です) 「人は希望と共に成長する」(ボンフェッファー)
(3)生きる使命が与えられます。(使命」とは誰かのために、何かのために命を使うこと。) 
生きる目的とは、あなたを必要としている誰かに「応答すること(To response)」
です。

 今日も目には見えませんが、復活して生きておられるイエス・キリストに信仰の応答をしましょう。共に生きる家族に愛をもって応答しましょう。あなたが遣わされている職場や学校や家庭に喜びをもって応答しましょう。

まとめ:
今朝のメッセージをまとめますと、「復活されたイエス・キリストを同伴者として生きる人生は最も幸い」ということです。
 日野原重明先生は、震災10周年の記念講演の終わりの言葉で会衆に向かって「それでは皆さんまた10年後に元気で会いましょう」と言われました。そのとき、94才だったと思います。この先生を根底から生かしているのは、「信仰によって神から与えられる勇気と希望」です。
 
復活されたイエス・キリストと共に歩く時に真の勇気と希望が与えられます。その人は心が燃えて、新しい使命に生きることができます。 

2006/04/09(日) 「そこはあなたのゲッセマネ」大嶋博道牧師
受難週礼拝 (聖書)マルコ14:32〜42

●今日から受難週が始まります。
マルコ11章にあるように、日曜日にイエスはロバに乗って入城されました。その時民衆はイエスを「ホサナ、ホサナ」と言って歓迎しました。しかし、数日後、同じ民衆が「十字架につけよ」と叫んでイエスを排斥したのです。ゲッセマネの出来事はその週の木曜日のことです。エルサレムの二階座敷で最後の晩餐をされたイエスは、オリブ山に11名の弟子を伴って出かけられました。そしてゲッセマネに入られる時には「ペテロ」「ヤコブ」「ヨハネ」の3人だけを伴われました。
●33節によるとイエスは非常に恐れられ、もだえ始められて地面にひれ伏して「…しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈られました。しかしその時に弟子たちは眠っていたのです。しかも三度も〜何回も同じ事を繰り返したのです。

●私たちも人生のゲッセマネに直面するときがあります。その時には次のようなことを覚えたいと思います。
@「ゲッセマネ」とは人間の本質が弱さであると言う事を確認するところである、と言う事が先ずその第一の事です。イエスはもだえ苦しみ死ぬばかりに悲しまれました。人間の本質は弱さであり、罪深い存在であり、滅ぶべき存在であると言う事がその第一の事です。人生のゲッセマネに出会った時は「弱さは人間の条件である」ことを心に刻み、謙虚になりたいものです。

A「ゲッセマネ」とは、天命を求め、祈りによって神と向き合い、組み討ちするところであると言うのが第二の事です。神の思いは決定的です。私たちの一般的な思いと神の決定的な思いの食い違いに悩み、神様と向かい合って組み討ちするところがゲッセマネなのです。ヤコブはヤボクの渡しで、夜を徹して神と向き合い真剣に組み打ちし、最後は勝利を得ました。大事なことは人生の「節目」においては、神のみ心を求めて神と正面から向き合うことです。

B第三の事は、この「ゲッセマネ」では主は激しく祈っておられます。そして最後に「アッバ(お父ちゃん)、わたしが願う事ではなく、御心に適うことが行われますように。」と祈っておられます。このようにゲッセマネとは、「信頼と平安」を得るところです。イエスはこの祈りを何度も何度も繰り返して祈っておられます。このように祈りが繰り返されるところに平安があります。
 私たちの悩みや思い煩いは常に明日に向けられています。しかし、「明日」は私たちの領域ではないのです。
私の領域でない明日を悩むがゆえに、私たちは不安になるのです。明日何が起こるかわからないからです。
平安を得るためには、私たちは明日を神様におゆだねして生きるしか方法がないのです。

●イエスは祈りの結果、「時が来た。立て、行こう」と確信をもってゲッセマネから立ち上がり、神のみ心を行う道を歩み始めることが出来ました。信仰の勝利を得たからです。私たちも人生のゲッセマネに神と向き合い、み心を求めることをとおして神への信頼と平安を得て、勝利をもって立ち上がりたいと思います。

2006/04/02(日) 「再び、わが羊に」大嶋博道牧師
年度開始 総員礼拝 (聖書)エゼキエル書34:11〜16
序 論:
今日は新しい年度の始まりにあたり、改めて「牧師と信徒の関係」について考えてみたい。
これは私の皆さんへの約束であり、またお願いでもあります。
 エゼキエルとその時代について
 エゼキエルはエルサレム神殿で祭司として神に仕えていました。紀元前597年にユダ王国がバビロン帝国に降伏して、第1回捕囚が行われた時に、彼は指導者や兵士や職人たちなど約12,000人に混じってバビロンに移住しました。移住の地での5年目に、神の召命を受けて預言者として活動を始め、最初の5年間はエルサレムに対する神の裁きを預言し、ユダ王国が滅んでしまった後、一転して捕囚の民の救いを預言するようになりました。  
 
エゼキエル34章1節以降には民に災いをもたらす偽「牧者」のすがたが記されています。彼らは民に傷を負わせ、痛みを与え、苦しめているだけで、牧者として失格です。
それに対して34章11節以降には真の「牧者」のすがたが記されています。
真の牧者とは(1)自分の群れを探し出し、世話をする。(34:11)(2)良い牧草地で羊を養い、憩わせる。(34:14、15)(3)失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。(34:16)
 この真の牧者の姿は詩編23編1〜6とヨハネ10:1〜18に描かれています。前者は神が牧者でダビデが羊、後者はイエス・キリストが良き羊飼いで弟子たちが羊にたとえられています。今日では牧師が羊飼いで信徒が羊ですね。

本 論:                             
今朝、私は皆さんの「羊飼い」すなわち牧者として、幾つかのことを約束します。聖霊のみ助けによって成し遂げたいと願います。
(1)神のみ言葉と祈りをもって羊である主にある皆さんを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を常に生き返らせるように勤めたい。
(2)鞭と杖をもって(ここでもみ言葉と祈り)をもって正しい道に導くよう勤めたい。
(3)皆さんの頭に油を注ぎ、恵みに溢れさせるよう勤めたい。
(4)傷つき、弱った時には包むことが出来るように勤めたい。 
(5)羊である皆さんのために全身全霊をもって仕えるよう勤めたい。      

牧者から羊である皆さんに願うことは三つあります。
(1)牧者に信頼してついてきて頂きたい。
(2)私の声を聞き分けて欲しい。(メッセージをしっかり聴いて、何が求められているのか
   を深く知っていただきたい)                
(3)神のミッション(伝道)に積極的に参加して頂きたい。皆さんが羊を産んで欲しい、
すなわち家族や友人・知人を教会に導いて欲しい。

まとめ:
 大切なことは「羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)とあるように、この群れが霊的に一つになり、愛において一つにあるように心から願っています。
今年度も共に力を合わせて主のみ業に励みましょう。


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