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最新の絵日記ダイジェスト
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2006/05/28(日) 「信仰の馳せ場を走る」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ヘブライ12:1〜2

序 論:
 今日のメッセージの題は「信仰の馳せ場を走る」ですが、お伝えしたいのは、「どのように歩めば、本当に祝福された信仰生活になるのか」であります。
まず、パウロは信仰生活をしばしば「陸上競技」に例えています。彼はオリンピックの発祥地ギリシャにも伝道旅行をしており、彼はそこで激しく競走をしている選手たちを見たのではないかと思われます。(コリント一9:24〜27、テモテ一6:11、テモテ二4:7)
そして今朝のテキストも私たちの信仰生活が「陸上競技」に例えられています。
まず、11章1節で、信仰とは何なのか?が定義されています。
 (1)信仰は希望するものの保証=望んでいる事柄を確信させるもの
 (2)見えないものの証拠=見えない事実を確認させるもの
そして、11章4節から、このような信仰によって神と共に歩んだ信仰の先達を紹介しています。彼らの生き様を支えたのは神への忠実でひたむきな信仰だった、と語っています。

本 論:
 ヘブライ12:1〜2を中心に「信仰の馳せ場の走り方」を学びましょう。
(1)私たちは多くの信仰の先達に囲まれていることを知る
 証人とはいのちをかけて信仰を守り貫いた旧約の族長や預言者など、さらに初代教会の弟子たちや使徒たち、また、殉教者たちを意味しています。さらに、アウグスチヌスや中世のルターやカルヴァン、そして18世紀のジョン・ウエスレーなどもそうです。実に夥しい信仰の先達が私たちを取り囲んでいます。

(2)余計なものをかなぐり捨てる
「かなぐり捨てる」とは力を入れて切り離すことを意味します。競走は身軽な方が有利です。信仰の馳せ場を走る時も同様です。からみつく罪や誘惑、どん欲な思い、思い煩いや心配などはかなぐり捨てたいものですね。
パウロはキリストを見出した時、今まで持っていたものを塵あくたと見なすようになりました。(フィリピ3:8)

(3)イエスを見つめながら走る
 イエスを見つめながら(目を離さないで)走る、それが私たちに求められている最も大切な点です。ここで語られている「見つめる」と言う言葉は「注意深く観察する」とか「計算する」という意味を持ったものです。ですからただ漠然(ばくぜん)として見つめるのではなく、一生懸命に自分の心を、魂を集中して見つめるということを言っているのです。集中するとそれ以外のものは目にも耳にも入らなくなると言うのです。お互いに、最終ゴールである天国を目指して、この地上において信仰の馳せ場を忠実に走り通しましょう。

「わたしは勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。」(テモテ二4:7〜8)

2006/05/23(火) 「御言葉の実行」 滝谷良一牧師
特別礼拝 (聖書)ヤコブ1:19〜27

序 文:
ヤコブの手紙はパウロの手紙が引き起こした「行い無用説」を訂正するために書かれた。
パウロの福音の強烈な光で宗教改革をしたルーテルはヤコブ書を「わらの書」と言ってしまったが、救いの恩寵を強調する余りキリスト者の実生活で御言葉の実行がなおざりにされる傾向がある。言葉はその実行の裏付があって真実性を持つ。親は子をしかり、道徳を説くが、その行いが伴わないので子の尊敬を失う。
本 文:
 ヤコブは「御言葉を行う人になりなさい」と勧める。その具体的な方法として「聞くのに早く、語るのに遅く、怒るのに遅くしなさい」と提案する。日本には「聞き上手」と言う表現がある。
それに「耳偏」のつく「聴く」があるが耳を澄まし、十四回耳を澄まし、心して聴く姿勢こそ神の言葉の聴き方であり、それは実行を伴う聴き方である。人は自己弁護をするのに雄弁であるが、他人の説明や言い訳を良く聴いて、事情を正確につかむ努力をしないことがしばしばである。親が子の言い分を、夫が妻の言い分をじっくり聴いてやらないことから関係がもつれて行く。相手への尊敬は集中してその人の語る事に耳を傾けることにある。夫婦
円満、親子円満の秘訣は相手の話をしっかり聴くことにある。そこに談話があり、心温まる話し合いがあってお互いの愛が確かめられる。
 
 御言葉の実行は神の言葉をどのように聞いているか、どのような姿勢で聴いているかと言う事から始まる。個人のデボーションで読む聖書のことば、講壇から説教される神のことばをどのように受け止めているかを吟味する必要がある。右の耳から入って左の耳からぬけるような聴き方、日曜の礼拝で聴いた説教を月曜日には忘れるようでは、御言葉の実行は成立しない。
 
 ヤコブはさらに「自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」と警告する。
そのような人は鏡で自分の顔を見て、鏡を離れると直ぐ自分の顔を忘れる人に例える。ヤコブの「生まれながらの顔」はパウロの「生まれながらの人」に共通している。御言葉を実行しない人は、自分がどこから救われ、贖われたかを直ぐ忘れるキリスト者のこと。
御言葉にいつも自分を映して、救われた喜びと神への感謝に満ちて、その幸せを人に伝えて止まない実のあるクリスチャン生活を営んで主に栄光を帰して生きたい。


2006/05/14(日) 「母の労苦に主は報いて」大嶋博道牧師
母の日記念礼拝 (聖書)ルカ7:11〜17

まず、「母の日」に際してすべての女性に心から感謝を捧げ、神の豊かな祝福をお祈り致します。
●今日のメッセージの中心となるみ言葉はイザヤ書38章4〜5節「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た」にあります。主は私たちの祈りを聞かれ、悲しみの涙を理解し、しっかり受け止めて下さるお方です。
 さてルカによる福音書の今日のみ言葉の箇所にある夫に先立たれ、最愛の一人息子を病気で失った母親を一言で言うと「母とは労苦の存在だ」ということです。そして「労苦」はこの世にあってはなかな評価されず、報われません。しかし、主イエスはこのような母親の悲しみをご存じで、流した労苦の涙に報われるお方です。物語から、主イエスのなされたことを学びましょう。

@第1には「この母親を見て憐れに思われた」と。夫に先立たれ、今また一人息子が死んで悲しんでいる母親に対する神の第1の思いがこれです。

Aそして第2の事は「もう泣かなくて良い」と言われた事です。これは神がもう泣かなくても良いような状態にしてくださると言う事です。

Bそして第3には「主は棺に手を触れられた」と言う事です。当時は死者は汚れた存在で死者には手を触れる人は居なかったのにイエスは棺に手を触れられたのです。

Cそして第4には「若者よ、起きなさい。」と言われました。母親に心配しなくて良いと約束されたように、若者に対して「起きなさい」と言われたのです。
そしてその死んでいた若者(子供)は起き上がり、ものを言い始めたのです。

Dまた第5には、「若者を母親にお返しになった」のです。母が失った大切なものを母親にお返しになったのです。

●母親とは色々なものを奪われていく存在です。しかしその奪われた物をもう一度返してくださるのが神様です。アウグスティヌスの母モニカは息子のために涙しながら17年間もの長きに亘って祈り続けたのでした。涙しながらです。
 
 その結果、アウグスティヌスは33歳の時に「信仰に導き入れられて主を告白するようになり」偉大な神学者となりました。アウグスティヌス自身が「私が今日あるのは母の涙の祈りの結果だ」と言っています。主は確かに「母の労苦」に豊かに報いて下さり、幸いを備えて下さいます。

2006/05/07(日) 「主を選び、主に仕える」大嶋博道牧師
総員礼拝(聖書)ヨシュア24:14〜16

● モーセの後継者がヨシュアです。このヨシュアはどんな信仰を持っていたのでしょうか。
聖書によるとヨシュアは、「モーセの挙げた手を見ながらアマレクと戦い」「モーセと共にシナイ山に登り」「モーセが臨在の幕屋で神と語っている時、幕屋に仕え」「偵察の後すぐ、カナンの地を攻撃することを提案し」「ヨルダン川を渡る時、…神が示された手順通りに行い」「最後までわたしとわたしの家は主に仕える」と宣言し、神に徹底的に仕えた人でした。

●今日のみ言葉の15節には「わたしとわたしの家は主に仕えます」とあります。ヨシュアの信仰の特徴は二つあります。
@「信じる」と言う事を口にし、口にした事を実行した人でした。
Aまた、徹底的に神のみ言葉に服従した。この信仰からは私たちも神様からの命令をそのまま守る時に、必ず祝福されると言う事を学ぶ事が出来ます。

●「シケム」とは、契約が行われる場です。そこでヨシュアは民に「あなたがたが仕えたいものを、今日、自分で選びなさい」と言います。自分の旗色をはっきりする、即ち「旗幡鮮明(きしせんめい)」にしなさいと言っています。
ヨシュアは一生涯を通して神のみを信じて生きると言う事を鮮明にした人でした。日本人は信仰に関しては曖昧なところが多いと思います。あなたはそれを鮮明にしていますか?
出来ていない人は、神の恵みを受けるために今日からその事を実行して欲しいと思います。

●ヨシュアは言っています。「神々を選ぶか」「主なる神を選ぶか」今日、自分で選びなさいと。自分がはっきりと決心する事により「自分も家族も」祝福を受けます。そうです。
@神を信じる信仰以外に本当の救いは無い、と言う事とAこの信仰によって生涯をとおして私は最善に導かれ、喜びがあり、祝福される、と言う事を信じる事が「主を選び、主に仕える」と言う生き方なのです。


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