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最新の絵日記ダイジェスト
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2006/06/25(日) 「大事な預かりもの」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝(聖書)ペトロ一4:7〜11 

はじめに:
 賜物と訳されたギリシャ語「カリスマ」はカリス(恵み)から派生しており、神より与えられた霊的賜物を意味します。メッセージの結論は、与えられているこの霊的賜物を豊かに活用するということです。

序 論:
 ペトロがアジアの諸教会に書き送った手紙には「万物の終わりが近づいている」と言及されています。時代は異なりますが、21世紀に生きる私たちも戦争や紛争、核の脅威、地球環境の破壊、政治や社会の混乱、教育の現場の荒廃等で「終末的様相」を帯びています。このような時に、聖書は「賜物の活用」を勧めているわけです。私たちが賜物とどう向き合ったらいいのかを学びましょう。

本 論:
 マタイ25:14〜30には「天の国」をタラントンの活用に譬えて説明しています。(マタイはユダヤ人なので「神」という言葉を使用するのを畏れて、「天」を用いた。「神の国」と同義語です。)
「タラントン」とは重さの単位で、1タラントンは6000デナリすなわち20年分の労働賃金に相当します。つまり、人間の一生に値する高価なものです。具体的にはいのちそのものであり、からだであり、能力、才能、性格、金銭、物質、そして時間でありましょう。
キリスト者に置き換えると、神の言葉を語ったり、証ししたり、賛美したり、祈ったり、奉仕する賜物のことです。譬えでは1タラントン預かった人は活用せずに地に埋めていたというのです。主人から精算を求められた時、彼は1タラントンを差し出しました。
 1タラントンを失わないように地に埋めるよりも、1タラントンを用いて失敗して失うことの方が意味があります。要するに、神から預かったタラントンを活用しないことは神に対して不忠実なのです。

 神様からの大事な預かりもの(タラントン)とどう向き合ったらいいのかを考えましょう。
(1)自分の預かりものが何であるのかを再確認しよう。今年の教会標語の「神の召しにふさわしく歩む」のとおり、自らの召し(仕事・目指すもの)を再点検しましょう。
(2)勇気をもって大胆にタラントンを活用しよう。神からの預かりものを活用することはいのちを用いることすなわち生きることそのものです。
(3)神からの預かりものを神の栄光を現すために豊かに活用しよう。
マザーテレサはこう言いました“I am only a penchil in the Hand of God.”(わたしは神の手に握られたほんの一本の鉛筆しかすぎません) 彼女は、自分に与えられた賜物を豊かに活用し、「神の愛の使者」として貧しい人や病人のために生涯をかけて奉
仕しました。彼女をとおして神様の栄光は豊かに現されたのです。
 さあ、あなたの大事な預かりものを思い切り活用しませんか!一度限りの人生です。悔いのないように。祝福をお祈りしています。

2006/06/18(日) 「生きるために何が必要か」大嶋博道牧師
花の日」大人・子ども合同礼拝(聖書)ルカ12:13〜21 

はじめに:
今日は一週間遅れの「花の日」で、大人子ども合同の礼拝を守ります。子どもたちは先ほど永原先生をとおしてお話しを聴きまして、階下におりて分級を行っています。大人の皆さんに「生きるために何が必要なのか」を聖書からお伝えしたいと思います。

序 論:
今日のみ言葉の中心は「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言う21節にあります。人は何も持たないで生まれて来ますが、暫くすると沢山の物を持つようになります。持ちすぎる程に持つようになります。しかし、考えてみるとそのような人でも持たねばならない一番大切なものを持ってはいないのではないでしょうか。
●今日の聖書で一番注目したいのは遺産相続の事である人が他の所ではなくて「イエスのもと」を訪れたと言う所です。その兄弟にイエスはひとつのたとえ話をされます。大豊作になったので倉を大きくし、ここに穀物を蓄えようと考える金持ちのたとえ話です。この金持ちは自分のためにだけ財産を蓄えようとしました。他人のために使うと言う考えはありませんでした。財産を持つと言う事は悪いことではないのですが、問題はそれをどう使うかです。
●この金持ちは命には限りがあると言う事を忘れていました。人の幸せはその持ち物によるのではなくてそれをどう使うかにあると言う事を忘れていました。そして、共に生きる相手、応答するための相手を見てはいなかったのです。即ちこの金持ちは自分の事しか考えていませんでした。

本 論:
●では、私たちが生きていくためには何が必要なのでしょうか。それは次の5つです。
 @その第1は生きる目的、目標がはっきりしている事です。パウロは「わたしにとって生きるとはキリスト」と言っています。(ピリピ1章21節)
 A第2の事は生きる上で一番大切なものは何かと言う事を知る事です。キリストによって今まで大切と思っていた事をキリストの故に損失と見なすようになったとピリピ3章7節にあります。
 B第3の事は、私を支えているのは誰かと言う事です。詩編62の3では神こそ私の岩、私の救いとあります。
 C第4の事は私を必要としている人は誰かと言う事を見つける事です。他者すなわち共に生きるもう一人の自分を見つける事です。
 Dそして第5番の事は夢、明日への希望です。

まとめ:
 「この食べ物を食べ、行ってイスラエルの家にかたりなさい」とエゼキエル書3章1節にあります。神の言葉を心の奥深くに受け入れた時に、それは自分にとって密のように甘くなるのです。それが人を生かします!  

2006/06/11(日) 「思い悩まない人生へ」大嶋博道牧師
伝道礼拝(聖書)ルカ12:22〜31

序 論:
「思い悩み」はどこから生まれるか?
「思い悩み」と訳されたギリシャ語[メリムナ]は元々、生活の重要な事柄が心をとりこにすること、また、「心が分割して集中出来ない状態」を意味します。「心配」とか「思い煩い」とか「心遣い」とも訳すことができます。
思い悩みは主として、衣食住とそれを維持するお金やモノ、健 康、責任を果たす能力、様々な人間関係、子育て、自分の将来のことなどから生じます。それらは常に変化するものです。

私たちはなぜ「思い悩む」のでしょうか?
@「自分の未来はこうなる」と、自分勝手に決めてしまうから。不確かなのに「未来図」を描いて「そうなる」と思いこんでしまうから。
A毎日の出来事をマイナスに考えて計算するから。
Bいろいろなものを持ちすぎているから。
C人間存在の本質は「未完成」であることを受け入れられないから、
D自分の人生を神のみ手に委ねることができないから。

本 論:
ルカ12:22〜31によると、 イエスは私たちの目を「空の鳥や野の花」に向けさせ、見捨てられたようなカラスでさえ神は養って下さり、枯れて焼却炉に投げ捨てられる野アザミでさえ神
は装って下さるのだから、「ましてあなたがたにはなおさらである」(12:28)と、語られました。

聖書の神は「配慮の神」「Pro-ver(予め見ておられる神)」です。ですから、
 @感謝を込めて祈りと願いを捧げましょう。
 A求めているものを何でも神にうち明けたいものです。
B神は養って下さるお方です。すなわち、私たちの必要をよく知っておられ、必要なものを備えておられ、私たちを最善に導いておられるお方です。(ローマ8:28)

まとめ:   
 ジョン・ウエスレーの言葉を引用します。
「遠い将来に何をしょうなどと、思い悩んではなりません。そのような遠い将来はあなたに来ないかも知れません。また、あなたの関心事でなくなっているかも知れません。あなたはその日
その日の存在でしかないのです。
 いや、もっと厳しく言うならば、明日と何の関わりがあるのでしょうか。必要もないのに、なぜあなたは途方に暮れるのですか。神はあなたに与えられたいのちを支えるために必要なものは
何でも、今日あなたのために備えて下さいます。」明日はただ神様の「領域」です。

2006/06/04(日) 「我々の内に住み給う神」大嶋博道牧師
 総員礼拝(聖書)ヨハネ14:15〜24

●今日はペンテコステ礼拝を守ります。ペンテコステとは「50番目」と言う意味です。
イエスが十字架に架かられてから50日目に当たる日がペンテコステです。聖霊とは「教会が起こされる」「人が悔い改めるて神に立ち返る」「イエスを宣べ伝える」原動力、すなわち信仰生活のエネルギーです。
ドイツの神学者K.バルトによりますと、聖霊は「我々の内に住み給う神」なのです。(23節)神はただ高い天に一人住み給うお方ではなく、我々の内に住み、我々を動かしてくださるお方なのです。

●では、我々の内に聖霊が住み給うためにはどうしたら良いのでしようか。それは使徒言行録1章14節にあるように「心を合わせて熱心に祈る」事です。心を清めて、聖霊が宿ってくださるようにと祈りをなす事がその条件となります。

●では、聖霊が我々の内に宿ってくださるとどうなるのでしょうか。それは「人生が変えられる」と言う事です。どう変えられるかと言うと、

@生き方の確信が得られる、と言うのがその第1の事です。揺れ動く心を持つ人間の心に聖霊をいただく事により私たちには生き方に確信が与えられます。

A第2の事は「繋がりが与えられる」と言う事です。それは「神との繋がり」「私と家族との繋がり」「私と友人との繋がり」等々の繋がりです。これらの人々と心を一つにして一緒になる事が出来ます。

B第3の事は「平安が与えられる」と言う事です。心が騒ぐ私たちの心に平安が与えられ、心の落ち着きが与えられます。

Cそして最後に第4の事は「喜びが与えられる」 ことです。
私たちの様々な心の悲しみが喜びに変えられます。このように私たちが変えられるためには「心を空にして聖霊が心に宿ってくださるように」と祈り続けなければなりません。そのような
信仰生活を守りたいものです。
●そして、Tコリント6章19〜20節にあるように聖霊が宿ってくださった体でもって神の栄光を顕したいものです。皆様の上に、聖霊が宿ってくださるよ
うにとお祈りいたします。              


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