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2006/07/30(日) 「誓ってはならない」 畑中康雄勧士
信徒礼拝 マタイ5:33〜37

●今日の聖書の箇所は山上の説教で有名な5章1節からに続いて大切な守るべき事を教えている箇所です。天国に入るためには「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の義にまさっていなければならない」と20節にあります。
 そのより優れた「義」が「腹をたててはならない」「姦淫をしてはならない」「離縁してはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」と言う6つの義です。これらが「律法」と「預言」を完成させるものである愛に根ざした人間関係、律法の真の精神であると教えています。

●今までの「律法」「預言」よりも優れた「義」であり、これらの事を教える事により「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われているように「義」について定められた「律法」よりも「愛」に根ざす人間関係を重んじて律法の真の精神がどこにあるかという事、「律法」と「預言」という旧約の宗教観をより発展させて新約の「愛」の宗教観を完成させた教えを私たちに語っておられます。

●旧約聖書に、神様に誓いをたてた悲しい物語があります。士師記11章30〜40節によると、エフタは勇敢にもアンモン人に向かって攻撃を始めます。その時に彼は主に誓いをたてます。「もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるのなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰る時、わたしの家の戸口からわたしを迎え出てくる者を主のものといたします。わたしはその者を焼き尽く献げものといたします」と。
 そしてアンモンとの戦いに勝利して喜びと共に帰宅した時、彼を戸口に迎えに出てきたのは彼の娘でありました。エフタはこの時に勝利の喜びが一瞬にして悲劇となり、取り返しのつかない事をしてしまったと衣を引き裂いて嘆きます。

 つまり人間は願い事を叶えるためならば口先ではとてつもない大きな事を言いますが果たしてそれが叶えられた時には自分が誓ったその事の重大さに気づき後悔するのです。
このように弱い人間に対して、人間の愚かさをご存じの神様は「誓ってはならない」と言われるのです。       

 元より神に造られた人間が、願い事が叶えられた時に自分のいのちや物を神に差し出すことを神に誓うのは極めて傲慢なすがたであります。なぜなら、それらはすべて神に所属し、ただ恵みによって神から私たちに与えられたものですから。 

2006/07/23(日) 「それは誰のせいですか」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ヨハネ9:1〜7

序 論:
イエスが生まれつき目の不自由な人を癒された物語から信仰生活に大切なことを学びたいと思います。
古来よりユダヤ人は、病気や身体的な障がいは本人か、その両親か、先祖の罪に起因する、という考え方がありました。日本にも因果応報的な考え方は存在しています。
確かに、病気や事故や災害などが重なると「誰のせいか」と、その原因を追及したくなるのが私たち人間です。

生来にして目が不自由な男の人を見た弟子たちは、イエスに「誰のせいか」と質問しました。
イエスは答えて「それは誰のせいでもなくて、神様のみ業が現れるためである」と驚くべき教えを語られました。そして、この男の人の目を癒されたのです。

「神のみ業が現れるとは、苦難の中に置かれている人が癒され、回復して祝福された人生を歩むことが出来ると共に、そのことによって神ご自身が人々から栄光を受けることです。
つまり、「神様はすばらしい愛のお方である」ということが証されることなのです。

本 論:
では神のみ業が現れるためにはどんな信仰生活をしたら良いのでしょうか。
第1の事は「私たちは神様の聖なるご計画の内に置かれていると言う事を知って生きると言う事です。私たちには神様の秘められたご計画があります。それは隠されていますが、神様は寸分の狂いも無駄もなく私たちをその計画に従って導いておられるのです。

第2には、私たちは人生を神様のみ手に委ねて生きるということです。
このことは、神様は万事を益にしてくださることを確信して生きることです。

第3の事は、神様のみ言葉に応答して生きると言う事です。
神様と向き合うということです。日曜ごとの礼拝で神様の前にでてメッセージに耳を傾け、祈りをささげ、献身のしるしとして献げものをし、奉仕に励む・・・・。聖書のみ言葉に真摯に聴き、具体的な生活の場で可能な限り実践すること、これこそ神のみ業が現れるための生き方なのです。

まとめ:
神様はあなたのマイナス(試練・苦悩・さまざまなハンディー)を用いて、神様のみ業を現してくださいます。そして、あなたがそのマイナスを克服したり乗り越えるために共に働いてくださいます。

18世紀のフランスにルイ・ブライユという人がおりました。彼は盲人のための文字として世界中で広く使われている点字の考案者です。3歳の時に、父親の仕事場で遊んでいて事故で失明したのです。じつに悲しく、痛々しい体験です。彼は絶望の中で悲嘆にくれる人生を送っていました。しかし、この出来事をとおして、のちに点字というものを発明することになったのです。ルイ・ブライユの人生の悲劇が、一転して多くの目が見えない人々に祝福をもたらす出来事となったのです。
神様はあなたの信仰生活をとおしてご自身の大いなるみ業をなして下さいます。

2006/07/16(日) 「祝福を受け継ぐ」大嶋博道牧師
聖日礼拝  (聖書)創世記26:15〜25

序 論:
 ご存じのように、創世記12章からアブラハム物語が始まります。神様は信仰の父アブラハムを選び、召命を与え、そして祝福の約束を与えました。

創世記12:1〜4を要約します。
 @主はアブラハムに言われた  (アブラハムの選び)
 A「歩け、自分の足で、私が示す地に向かって」  (アブラハムの召し)
 B「・・あなたを祝福し、・・あなたは祝福の源となる。  (祝福の基となる約束)
 Cアブラムは主の言葉に従って出立した。  (アブラハムの献身)
この時アブラハムは75歳でした。彼はやがて迷いながらも、神が約束された地に足を踏み入れます。アブラハムはその間、何度も「祝福の約束」を神様から聴きます。(創世記15:5〜7,17:1〜8)

 神様のアブラハムへの祝福の約束が実現したのは、それから25年後、アブラハムが100歳に至った時でした。イサクが誕生したことによって約束がついに実現しました。ですから、イサクは約束の実現、証拠ということになります。
 しかしながら、イサクはと言えば、アブラハムの約束の故に、神の祝福を無代価で受け継ぐ者とされ、非常に豊かな族長とされました。

本 論:
 創世記26:15〜25のイサクの生涯の一こまから私たちが
「祝福を受け継ぐ」あり方を学びたいと思います。
(1)神の言葉に従順に従ったイサク (創世記26:1〜6)
イサクは神から命じられた通り、神の言葉に従い、飢饉の間、
ゲラルに寄留することになります。この地でイサクは次々と試練に遭いましたが、神の言葉に委ねた彼はここで大きな祝福にあずかることができたのです。

(2)人と争わなかったイサク(創世記26:15〜4)
 この頃、イサクは75歳ぐらいでした。イサクが祝され、裕福になったとき、ペリシテ人はイサクに嫉妬しました。ところが、イサクは掘った井戸をめぐって争うことをしなかったので、神様はイサクを祝され、新しい井戸を与えられたのです。決して人と争わない時、神様は私達に広い場所(レホボト)を与えてくださるのです。イサクのこの穏やかな生き方が祝福をもたらしたのです。

(3)祭壇を築いて主の名を呼んだイサク(創世記26:25)
 イサクは静かに神様の御旨を思い巡らし、神様に近づいた人です。イサクは大切な節目に、アブラハムと同じように、祭壇を築いて主の御名を呼んで礼拝しました。主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人を神様は祝福されます。(詩1:2-3)。
 忙しいことを理由に、神様に近づくことを止めてはいけないのです。神様との親密な関係を保ち、神様と共に歩むこと、そして、節目にはその場所を聖別して祈りとみ言葉の祭壇を築いて礼拝する、これが祝福を受け継ぐ秘訣です。
 
私たちの人生は客観的に見るならば平板で淡々としているように見えるかも知れませんが、イサクと同じように、ただ恵みによって神の祝福を受け継ぐ者とされているのです。これほど幸いなことはありません。

2006/07/09(日) 「愛によって」馬場一朗牧師
伝道献身者奨励礼拝 (聖書)ヨハネ一4:7〜21 
序 論:
 私が高校3年生の時にヨハネ15章16節のみ言葉に初めて接しました。私は中学生・高校生時代を通してスポーツをしていたのですが、そのみ言葉を耳にした時は丁度将来の進路のことなどで悩みを抱えていました。
 初めての礼拝は何も分からず、居心地の良いものではありませんでした。しかし、その時に「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたを選んだのだ」と言うみ言葉が聞こえてきたのです。

 「わたしがあなたを選んだ」「わたしがあなたを立てた」「あなたは行け」と言うみ言葉が私の心を打ちました。そして、それからは礼拝や祈祷会にずっと出席するようになったのです。そんなある日、神様はエフェソ2章1〜10節を私に語ってくださいました。
この中にはクリスチャンとしての信仰の土台が語られています。このみ言葉から幾つかのことを知ることが出来ました。

本 論:
(1)罪の中に死んでいた自分を知った。
 今まで的はずれ(ハマルティア)の人生を過ごしてきました。神様が求めておられるような本来、なるべき者にならなかった罪に気づかされたのです。

(2)イエス・キリストを知った。
 3節には「生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」とあります。この言葉に接した時に私は今まで「自分自身の価値観の中で」生活して来ていたと言う事に気づきました。しかしこんな私をも「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくだ
さり」「その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし」てくださり「この愛の恵みによって私たちは救われた」(4節)と言う事を知りました。

(3)神様の恵みを知った。
 実は私は3歳の時に車に轢かれて死にかけましたが何とか一命を取り留めました。
そんな私が神様に従って生きていこうとした時に本当はそんな生き方に反対だった父が「お前は一旦は死んだ身だから好きなように」と言ってくれました。私が神に従って生きる決心が出来たのにはまだ他に神様のご準備がありました。それは私がカトリック
系の幼稚園に行っていたと言う事です。神様は私に対して予めご準備をしていて下さいました。私は、人生の目的を知りました。「出かけて行け」と言うみ言葉によって私は神学校へ行くようになったのです。

(4)人生の目的を知った。
 私たちは神様の作品として造られています。神様は私たちを選んでくださり、恵みを与えてくださり、出かけていって欲しいと願っておられます。あなた自身の働きを通して神様のご栄光が顕れるようにと、そのために互いに愛し合いなさいと願っておられます。
「私が任命した、行け」と命じておられます。
 神様の愛によって励まされて神の作品にふさわしく歩みたいと願います。

2006/07/02(日) 「あなたは大切な存在」大嶋博道牧師
(聖書)イザヤ43:1〜4

序 論
●「あなたは大切な存在である」と聖書のみ言葉は語っています。今日はその事について学びます。イザヤ書43章はイスラエルの民のために神様が語られた預言の言葉です。それはイスラエルの民は神から選ばれた存在であるにもかかわらずそれにふさわしくない歩み(偶像礼拝)をして神から審かれ、国が滅亡するという不幸で悲劇的な体験をします。紀元前6世紀頃のことです。しかし、落ちこんでいるイスラエルの民を励ます言葉が4節にある「わたしの目にあなたは価高く、貴い」という預言だったのです。そして5節では「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」と約束していてくださいます。

●一般的には人間の価値は地位や名声や富など外面的なものによって決められています。しかし、聖書が示している人間の価値はこれらのものではないのです。
人の命はお金では買うことが出来ません。人の命を他のものに置き換える事は出来ないのです。人は一生の各瞬間、瞬間、神様から生かされ、今あなたが存在する事を望まれているのです。人生のどの部分をとってもあなたは、あなたの命は何ものにも代え難い大切なものなのです。

本 論
●マタイ20章1節からの「天の国の譬え話」には、イエスが人間の価値をどこに見ておられるかが語られています。
1日中仕事に就けなかった労働者に向かって神は夕方5時からでも仕事に就くように言われます。そして朝早くから働いた者と同じ賃金を、しかも一番最初に払うと言われています。
人間には考えられないような価値観が神の目にはあります。夕方まで仕事に就けなかった人も神の目から見れば貴い存在だと言われています。「愛」によってのみ成り立つ価値観がここにあります。

●では私たちが「大切な存在」だと言う根拠はどこにあるのでしょうか。
@それは人間は神の姿に似せて造られたからと言うのが第1の根拠です。(創世記1:27)
A私たちの命は全世界〜地球よりも重くて価値があるからと言うのが第2の根拠です。(マルコ8:36)
Bイエス・キリストの十字架による贖い〜私たちが死すべきところを十字架に架かり、贖ってくださった故に私たちは今、赦され、生かされていると言うのが第3の根拠です。(ローマ5:8)
Cそして最後に、人が誰かと共にいるのはその人が大切だからと言うのがその根拠です。
「わたしはあなたと共にいる」とイエスは言っていてくださいますから。(マタイ28:20)


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