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2006/08/27(日) )「ヨブの妻に答えて」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ヨブ記2:1〜10

序 論:
 ヨブは信仰的にも道徳・倫理的にも優れており、神様から「地上に彼ほどの者はいない」と言われた人物です。家庭的には10人の子どもに恵まれ、たくさんの財産と使用人を所有していました。まさに「しあわせ」を絵に描いたような人物でした。
 その彼に試練が訪れたのです。乱暴なシェバ人の略奪、落雷、災害に遭って一瞬にして財産や使用人や愛する子どもたちを失い、さらに自らも激痛の伴う皮膚病に冒されてのたうち回るという苦しみを味わったのです。
 そのような時に、最愛のはずの妻が「「どこまでも無垢(神に対して純粋)でいるのですか。
神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と罵ったのです。
 信仰生活において二重、三重の理由なき試練や苦しみに襲われたら、多くのクリスチャンは信仰が根底から揺さぶられ、ヨブの妻のような「本音」が口から出るのではないでしょうか。

本 論: 
 ところがこのような苦難のただ中で、ヨブは躓かず、倒れず、決して神を恨みませんでした。
それどころかこのように神を讃美したのです。ヨブの告白です。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。(ヨブ1:21)主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」また、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と、妻に対して直接自らの信仰で答えています。
 
 今朝、私たちお互いはヨブの妻に対して、ヨブと同じように確信をもって答えたいと思います。
ヨブの「主は与え、主は奪う」という告白は次のような大切な意味をもっています。
それは「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできな
い。」(伝道の書3:11)というみ言葉のように、神のなされることはすべて時に適っているということです。
 健康も病気も、喜びも悲しみも、幸せも不幸せも、成功も失敗も、そして生も死もすべては神のみ手に握られているのです。私たちのすべての出来事は神様のご計画の中に入れられており、神様は最終的には最も美しく彩って下さるのです。
 ヨブは「主は与え、主は奪う」という告白によって、神の配慮ある支配に対する信仰をヨブの妻に伝えたのです。

まとめ:
ヨブは最終的には元の境遇を取り戻します。信仰生活において味わう困難や苦しみ、様々な試練は、結局、豊かな恵みと祝福を与えるという目的のためにのみ、神がゆるされる試みであることを覚えましょう。
神のみ手に包まれて歩む信仰生活においては「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」です。このような信仰によって生きたいと願います。

2006/08/20(日) 「命がけの水くみ」 大嶋博道牧師
聖日礼拝 サムエル記下23:13〜17+歴代上11:15〜19

はじめに:
日野原重明先生が「現代は生き方の病にかかっている」と言われました。生きる材料はたくさんあるがその使い方を知らず、従ってどのように生きていけばいいのか分からないというのです。
今朝は、ダビデ王と3勇士の物語から特にクリスチャンの「生き方」を学びましょう。

序 論:
テキストを概観しておきましょう。
(1)ペリシテの陣に包囲され、洞窟で陰を潜めていたダビデ王の元に3勇士(部下)が訪れた。
(2)ダビデ王はなにげなく「ベツレヘムの城門の傍らにある井戸の水が飲みたい」と独り言を言った。(そこは敵のペリシテの先陣がいた)
(3)3勇士はダビデの心中を察して、20数キロの道のりを走り、勇敢にも敵の陣営に飛び込み、命がけで井戸の水を汲んできた。
(4)ダビデはその水を飲まないで、主に注いだ。(感謝の礼拝をささげた)おそらく、石を立ててそこにその水を注いで感謝の礼拝をしたのでしょう。

本 論:
 ダビデと3勇士との関係を主イエス・キリストと教会(キリスト者)との関係に置き換えることが出来ます。つまり、ダビデがイエス様であるなら、3勇士はあなたであり私なのです。
すると、ここにはキリスト者として極めて大切な生き方が示されています。

(1)主の御心を知ることの大切さ〜主君ダビデ王の言葉を聞き取った3勇士
勇士たちはダビデの洞窟を訪ね、主君がなにげなくもらした言葉を決して聞き逃さなかった。注意深く耳を傾けていたので、言葉を聴き取った勇士たちはそれを心で受け止めたのです。キリスト者は主のみ心である聖書の言葉を聞き取ります。
それは聖書を読むことによって、また、礼拝の中で語られるメッセージをとおして、また時には家庭にあって静かにデボーション(霊想)をすることをとおして。信仰生活は、主のみ心を聴き取る訓練が大事です。

(2)み言葉を聴いて行うこと〜主君ダビデの言葉を最優先させた3勇士
戦いの真っ直中で、することはいろいろあったが、勇士たちはダビデの願いを最優先させました。ダビデは決して命令したのではありません。独り言を口にしたに過ぎなかったのです。
 神様は私たちに「もっと奉仕をしなさい、もっと献げなさい、もっと礼拝や集会に励みなさい」と、要求されるお方ではないのです。それらはキリスト者である私たちの自主性にゆだねられているのです。イエス・キリストがどのようなお方であるかが分かれば、イエス・キリストのお心を知れば、私たちは主のお言葉を最優先せざるを得ないのです。
マタイ6:33「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられるであろう。」

(3)犠牲の働きは主に聖別され豊かに用いられる〜主に水を注いだダビデ王
 勇士が命がけで汲んできた水を、ダビデが飲んでしまえば、ダビデのノドの渇きを潤すだけのものでした。しかし、ダビデはそれを飲まないで、主に献げたのです。そのことによって、この水は最高の働きをしたのです。神が喜んでくださったからです。私たちの小さな奉仕も、主が用いて下さるなら最高のものとなるのです。神の栄光のために用いられます。
マタイ21:1〜3「主がお入り用なのです」というお言葉を心に留めましょう。

まとめ:
命がけでペリシテの陣を突破して、水を汲んできた3勇士のように、私たちも、(1)主のお言葉を聞き取って、命がけで従いましょう。主のお言葉は私たちには十分理解出来ない時もあるかも知れません。従おうとする時に大きな犠牲や摩擦が生じるかも知れません。
 しかし、キリスト者として信仰に生きる私たちは「自分中心の生き方から神中心の生き方」に変えられたい、導かれたいと願います。そのような私たちに主は豊かな祝福をもって報いて下さるのです。
詩編103:20を読んでお祈りしましょう。

2006/08/13(日) 「わたしの逃れの道」 西脇衛士勧士
信徒礼拝 コロント10:13

イスラエルではこの時期、乾燥地帯にあたる南部ではかんかん照りの毎日です。
この地方の羊飼いにとっては、空気が乾燥しているので木陰はまさに別天地であり、逃れの場所であり、新しい力を受ける場所でもあるのです。
今日のテキストにもある「逃れの道」とは、神の真実なる愛と恵みのある場所を言っています。イスラエル400年の奴隷の歴史を見る時、今あるのは神の恵みの故であることを思い、今、立っていると思う者は倒れないように気をつけなさいとパウロは戒めています。ではこのイスラエルの歴史は私たちに何を語っているのでしょうか。

聖書に見る神の裁きと救い(逃れの道)を見てみましょう。
1,地球規模の洪水による裁きと救い。(創世記7章1〜24)
 罪が地に満ちたとき神様の裁きが地球規模で行われた。そのときノアの家族が選ばれ、箱舟を用意させられ、この箱舟に乗ったノアの家族8人はみな救われたのです。

2,ソドムとゴモラの町の滅びと救い。(創世記19:1〜29)
不道徳な町ソドムに住んでいたロトはこの町が滅ぼされることを知り、神様に最短距離の逃れの場所を求めた。神様は愛を持って求めに答えられた。

3,奴隷生活からの滅びと救い。(出エジプト12章1〜14)
エジプト脱出のための最後の災いはすべての長子を殺すことでした。各家の鴨居に子羊の血を塗ることによって、裁き主がその家を過ぎ越すという逃れに道を備えられた。
この3つの歴史は何を物語っているのでしょうか。
ここに罪を滅ぼさずにはおかない「神の聖さ」があり、その罪人を救わずにはいられない「神の愛」があるのです。そしてこの3つの逃れの道はイエス・キリストを指し示しています。

試練には三つのものがあります。
1,理由のわからない試練・・・・・災害・病気。
2,自分の蒔いた種による試練。(ガラテヤ8:7)
3,他者からくる試練・・・・・中傷・非難・迫害などがあります。

しかし神様はその試練に対しても逃れの道を備えて下さっているのです。私たちの逃れの道は・・・・・何か人間的な別の道ではなく、イエス・キリストであり、そのお方はすぐそばに、必ずある助け(詩編46:1)なのです。誰でも試練に会うでしょう。
その試練の中にあるとき主のもとに行き、腰を下ろして、主からの安きをいただきましょう。
その根拠は・・・・・「神は真実な方である」からです。多くの試練を受けたパウロは、「神の真実は民の救いを実現される歴史を通してはっきりと表されています。聖書がそのことを物語っている。」というのです。(Tコリント1:4〜9)主こそ私の「逃れの帖廖崙┐譎・鹿届淋昭・埠暑uコ追崗柴藁圉聲竇就羊モ・拍・蜒◇皷\化C造両譟廖崙┐譴瞭察廚覆里任后@峪笋脇察淵曠疋后砲任后ΑΑ廚燭整譴弔瞭擦任垢伴腓聾世錣譴泙后@。

2006/08/06(日) 「できれば、というのか」 大嶋博道牧師
総員礼拝 マルコ9:14〜29

●今日の中心となる聖書の箇所は9章22〜23節です。聖書にある通り「信じる者には何でも出来る」と言う信仰を持ちたいと思います。「信仰による望みに生きたい」と思います。

序 論:
●さて、今日の聖書の物語は、弟子達が議論しているところにイエスが来られて弟子達が出来なかった事をイエスがされた物語です。「テンカン」(聖書には病名は出てこないが一般的にそのように推測されています)と言われていた病を治して欲しいと言う父親の願いに弟子達は応える事が出来なかったのです。その時に父親は「もし、できれば」と言っています。それに対してイエスは「できるならばと言うのか。信じる者には何でも出来る」と言われます。父親は曖昧な信仰でした。イエスを全面的に信じてはいませんでした。

本 論:
さて、ここから私たちの信仰的な生き方を学びましょう。
@「信仰とは」心を熱して生きる〜熱心に生きると言うことです(ルカ7章4節)
部分的ではなくて、自分の全生活、生涯全てに熱心に生きて欲しいと思います。

A「信仰とは」真実であり続ける事です。(Tテモテ章2節)
そして、それは具体的で、見える形で行動に移さなければにりません。

B「信仰とは」徹底的な信頼です。
「信じる者には何でも出来る」と言うイエスにこの聖書に出てくる父親は「信じます」と言っています。イエスの言葉によって父親は変えられたのです。
「信じる者には何でも出来る」とのイエスの言葉の意味は、イエスに100パーセント信頼する者にはイエスはどんなことも出来る(働かれる)ということなのです。

C「信仰とは」従順です。(フィリピ2章8節)
従順とは正しく従うこと、素直で人に逆らわないことを意味します。イエス・キリストが十字架の死に至るまで従順であられた、あの従順さこそ信仰の姿です。

そして最後に

D「信仰とは」祈りです。
「この種のものは祈りによらなければ決して追い出す事は出来な
い」と29節でイエスは言われています。信仰と祈りとはキリスト者の生活の両輪です。
ある神学者が「祈りとして結実しない信仰は単なる観念であり、信仰に裏付けられない祈りは単なる願望である」と述べています。まさにそのとおりです。

●ダビデは大男ゴリアトを倒すのに、剣や槍をもたず、小石を石投げひもに入れて、それを武器にしてゴリアトを倒しました。彼が告白しているとおりです。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」(サムエル記下17:47参照)
 今日のみ言葉を通して私たち1人1人はもう一度「信仰とは何か」と言う事について考え直してみたいと思います。


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