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2006/08/06(日)
「できれば、というのか」 大嶋博道牧師
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総員礼拝 マルコ9:14〜29
●今日の中心となる聖書の箇所は9章22〜23節です。聖書にある通り「信じる者には何でも出来る」と言う信仰を持ちたいと思います。「信仰による望みに生きたい」と思います。
序 論: ●さて、今日の聖書の物語は、弟子達が議論しているところにイエスが来られて弟子達が出来なかった事をイエスがされた物語です。「テンカン」(聖書には病名は出てこないが一般的にそのように推測されています)と言われていた病を治して欲しいと言う父親の願いに弟子達は応える事が出来なかったのです。その時に父親は「もし、できれば」と言っています。それに対してイエスは「できるならばと言うのか。信じる者には何でも出来る」と言われます。父親は曖昧な信仰でした。イエスを全面的に信じてはいませんでした。 本 論: さて、ここから私たちの信仰的な生き方を学びましょう。 @「信仰とは」心を熱して生きる〜熱心に生きると言うことです(ルカ7章4節) 部分的ではなくて、自分の全生活、生涯全てに熱心に生きて欲しいと思います。
A「信仰とは」真実であり続ける事です。(Tテモテ章2節) そして、それは具体的で、見える形で行動に移さなければにりません。
B「信仰とは」徹底的な信頼です。 「信じる者には何でも出来る」と言うイエスにこの聖書に出てくる父親は「信じます」と言っています。イエスの言葉によって父親は変えられたのです。 「信じる者には何でも出来る」とのイエスの言葉の意味は、イエスに100パーセント信頼する者にはイエスはどんなことも出来る(働かれる)ということなのです。
C「信仰とは」従順です。(フィリピ2章8節) 従順とは正しく従うこと、素直で人に逆らわないことを意味します。イエス・キリストが十字架の死に至るまで従順であられた、あの従順さこそ信仰の姿です。
そして最後に
D「信仰とは」祈りです。 「この種のものは祈りによらなければ決して追い出す事は出来な い」と29節でイエスは言われています。信仰と祈りとはキリスト者の生活の両輪です。 ある神学者が「祈りとして結実しない信仰は単なる観念であり、信仰に裏付けられない祈りは単なる願望である」と述べています。まさにそのとおりです。
●ダビデは大男ゴリアトを倒すのに、剣や槍をもたず、小石を石投げひもに入れて、それを武器にしてゴリアトを倒しました。彼が告白しているとおりです。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。」(サムエル記下17:47参照) 今日のみ言葉を通して私たち1人1人はもう一度「信仰とは何か」と言う事について考え直してみたいと思います。
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