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最新の絵日記ダイジェスト
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2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
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2006/09/24(日) 「仰ぐ人は生きる」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)民数記21:4〜9/ヨハネ3:14〜16

序 論: 
まず、今朝の聖書の箇所を吟味しておきたい。
(1)イスラエルの民は、モーセに率いられて奴隷の地、エジプトを脱出し、紅海を経て、荒れ野に入った。(民20:1〜)彼らはしばらくして先が見えない荒れ野の旅の不安や恐れ、飲み水や食物のことで不平不満、つぶやきが口からでるようになった。

(2)神様はつぶやくイスラエルの民に「炎の蛇(毒蛇)」を送った。これは民の罪に対する「神の審き」である。蛇は人々を噛み、多くの民は死んだ。

(3)イスラエルの民は、指導者モーセに懇願して、「蛇を取りのぞいて欲しい」と訴えた。モーセは神様に執り成しの祈りをささげた。

(4)すると、神様はこの祈りを聴かれてモーセに「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げなさい」蛇に噛まれた者がそれを見上げれば、命を得る」と言われた。この命令に従い、モーセは青銅の蛇を造って、旗竿の先に掲げたのである。

本 論:
「青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」という、この出来事を理解するために新約聖書のヨハネによる福音書3:14〜16を開いて読みたい。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(イエス・キリスト)も上げられなければならない。」これはやがて訪れる「イエスの十字架の死」を指している。

 つまり、こういうことである。イエス・キリストは、蛇に噛まれて死んだような「霊的な意味での死」を味わっている人々のために十字架の上に上げられた。十字架は地上から5メートルほどの高さにあり、群衆は十字架刑にされた人を下から仰ぐように見上げていたのである。

 3:15には「それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と記されている。おそらく、イエスは民数記のこの箇所を意識して語られたのであろう。
 仰ぎ見れば、生きる(民21:8〜9)
蛇にかまれた人は、モーセの言葉を信じて従い、竿の上の青銅の蛇を仰ぎ見ると、不思議と生きたのだ。もちろん、青銅の蛇に力があったのではない。信じて仰ぎ見るという「信仰」が、彼らを救ったのだ。

これを現代に当てはめて見よう。
 青銅の蛇なるイエス・キリストを仰ぎ見て目を離さず、日々、イキイキと生活していくのがキリスト者の生の姿勢である。(ヘブル12:2)。
 
では、「仰ぎ見る」とはどういうことか?
(1)神のみ言葉に聴くこと―日々の生活のすべてにおいて、特に人生の「節  目」にはみ言葉にしっかり聴くこと。
(2)祈りにおいて神と向き合うこと(ヤコブの「ペニエルの体験」参照)
(3)あらゆる思い煩いを主に委ね、明け渡すこと。
(4)主を賛美し(喜び)、日々感謝の生活を送ること。

 ラテン語の「人間」と言う言葉の意味にも、上を見ると言う意味がある。これからの人生を「イエス・キリストから目を離さないで、しっかり見上げながら、仰ぎながら喜びと感謝をもって歩みたいもの。「仰ぐと命を得る」―これがキリスト教である。これがキリスト者なのだ

2006/09/17(日) 「主の備えられる二つの恵み」大嶋博道牧師
敬老の日感謝礼拝 創世記41:46〜57

序 論:
 「ヨセフ」の人生は波乱万丈であった。兄たちから憎まれ、エジプトに奴隷として売りとばされ、宮廷の役人ポテファルの妻から姦淫の罪の濡れ衣を着せられ、監獄に長期間、投げ込まれた。このような逆境の中にあってもヨセフは、神を信頼し続け、最後にはパロ王のもとで高い地位につき、神からの大いなる祝福を得た。
 
そのヨセフはエジプトの地で、二人の子どもを与えられた。長男を「マナセ」と名付けた。マナセとはヘブライ語の直訳で「忘れさせる」の意味である。命名の理由は、「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせて下さった」から。また、次男には「エフライム」と名付けた。エフライムは、「実り多い、又は二倍の収穫」の意味で、神が、ヨセフを苦しみの地エジプトで、実り多い者とされたから。ヨセフが2人の子どもに付けた名前の意味は、神がキリスト者に備えて下さる二つの格別な「恵み」そのものである。
今朝はこの二つの恵みについて学びたい。

本 論:
(1)主は忘れさせてくださる。
 神が私たちに備えられる恵みの一つは、過去の苦しみを忘れさせて下さる、ということ。私たちには様々な肉体の傷、心の傷がある。それは、今も決して忘れることの出来ない「痛みを伴う傷」であるかも知れない。病気や事故や災害による傷、生育環境から引き起こされた傷、失敗や挫折による傷、愛する人を失った傷、人間関係から受けた傷など・・・・

忘れ去るとは、記憶そのものをなくすことではなく、記憶の傷を主によって癒していただくこと。それは過去の苦しみの傷にふたをして、目をつぶることではなく、意識的に忘れ去ろうとすることでもなく、むしろ、すべての傷を神の光の前にさらけだし、主の御手によって、深く取り扱っていただくことである。

(2)主は苦しみの地で実り多い者として下さる。
 私たちが体験する苦しみには意味がある。神は、苦しみの中でこそ、多くの実を結ばせて下さる「あわれみ深いお方」である。苦しみがあるのは、必ずしも、神が私たちを裁いているからではない。また、私たちが間違っているからでもなく、神から見捨てられたからでもない。神に愛されているからこそ多くの実を結ばせようとして、農夫なる神が、刈り込みをなさるのである。

まとめ:
 主が私たちの苦しみを忘れさせて下さるのは、私たちが今に集中して生きるためある。過去にこだわり、過去に執着して立ち止まっていたら「今」を生きることは出来ない。今は過去でも未来でもない。今に全力を傾け、悔いのない歩みをしたいもの。
そして、主は悩みの地で実り多い者として下さる。
 それは未来に対する希望を意味する。キリスト者は「ひたすら今に集中して生きること」と「神の領域である未来に希望を抱いて生きる」存在である。そこに神の豊かな恵みが備えられている!

2006/09/10(日)  「愛のきずなで導かれ」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)ホセア書11:1〜12

序 論:
預言者ホセアについて
 ホセアは紀元前750-725年頃に活動した北王国イスラエルの預言者です。その頃のイスラエルといえば、歴史的にはアッシリアに滅ぼされる直前の時代で、国内は宗教的にも道徳的にも混乱し、退廃して危機的状態でした。

ホセア書のポイント 
 ホセア書は預言者ホセアが不貞の妻ゴメルを決して見捨てず、見放さず「憐れみと赦しと忍耐」をもって極みまでも愛し続けたことを読者に伝えています。と共に、ホセア自身の結婚生活の体験から、イスラエルを選び、宝の民とされた神が、他の神々や偶像に心奪われ、罪を犯し続けるイスラエルの民を決して審かず、見捨てず、いかに愛と真実をもって導かれたかということを私たちに語っています。

本 論: 
 今朝のテキストから、「愛の絆をもって導かれる」神様のすがたを見ておきましょう。
聖書の中で「愛のきずな」という言葉が使われているのはこの箇所と新約聖書のコロサイ3:14です。伝道者パウロ先生はこう述べています。
「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」
 愛は「完成の絆」あるいは「完全の帯」というのです。「絆・帯」と訳されたギリシャ語〈シンデスモス〉は「二つ以上のものを一つにまとめる手段」という深い意味があり、紐、綱、また環という意味もあります。更に[縛る]とも訳されます。要するに神様は私たちを常に「愛の絆で導いて下さる」・・・・と言うのです。
その具体的な内容が、8〜9節に記されています。神のヘセド(切実な熱愛)です。
「愛のきずな」で導いておられる神様の姿を二つ見ておきましょう。

(1)神は決して見捨てない (創世記28:15 ヨシュア1:5)
 見捨てないとか見放さないというのは、最後まで関わり、責任を負って、最善に計らって下さるという意味で、神様の愛のきずなの導きを具体的に表しています。マザーテレサは「最も悲惨な病気は、自分は誰からも必要とされていない、見捨てられているという孤独である」と語っています。神様はそのような私たちに「生涯の終わりまで共にいること」を約束しておられるのです。

(2)神は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれるお方である。
 神様の愛は、憐れみに胸を焼かれるほど激しく、深いものです。出エジプト20:5に「熱情の神」という言葉があります。それは「嫉妬する神」です。
それほど神は激しく集中的に私たちに愛を傾けて下さるのです。
 それはイエス・キリストの十字架の贖いの死においてさらに具体的に示されました。

まとめ:
私たちの信仰生活も家庭生活もすべて「愛のきずな」で導かれているのです。ですから、日々、喜びと感謝をもって仕事や家庭生活や育児に、さらに信仰生活に励みたいと願います。    

2006/09/03(日) 「この世に生きる神の民」 大嶋博道牧師
総員礼拝 (聖書)ペトロ一2:9〜10

今朝のメッセージの主題は「この世に生きる神の民」ですが、この主題には私たちキリスト者にとって二つの大切なことが含まれています。一つは「神の民としてのキリスト者」、もう一つは「この世に生きるキリスト者」のあり方です。

(1)神の民としてのキリスト者
 1ペトロ2:9に小アジアに散在するキリスト者を指して、あなたがたは「選ばれた民」である、「王の系統を引く祭司」である、「聖なる国民」である、「神のものとなった民」である、と呼んでいます。21世紀に生きる私たちも「神の民」と呼ばれる存在です。ウエスレーが言うように「神の民」とは「特選の民」「神に買い取られた民」です。「神の民」としてのキリスト者あり方は、

 @イエス・キリストを徹底的に「主」とすること(ヨハネ20:28)
「主とする」ということは、このお方のみを救い主とすること、生活の柱、中心に据えて生きることです。「神の民」というのは、イエス・キリストを生きる限り、どこにおいても、どんな時にも「主」とすることです。

 Aイエス・キリストを一途に「見つめながら」走り抜くということ。(ヘブライ12:2)
「見つめながら」(アフォラオー)は見極める、凝視する、注目すると言う意味があります。イエス・キリストに繋がり続け、結ばれて生活する―具体的には、日曜ごとの礼拝生活を重んじる、み言葉と祈りによる日々のデボーションの励行、これが「神の民」としてのキリスト者のあり方です。

(2)この世に生きるキリスト者
 聖書には、この世に生きるキリスト者の具体的な生き方がいろいろな箇所に紹介されています。(ローマ12:9〜21、コロサイ3:12〜17など) 
 しかし、今朝のテキストによりますと、神のものとされた民は、また「王の系統を引く祭司」と呼ばれています。
 祭司は、旧約聖書の時代から、とても大切な役目を担っていました。それを一言でいうならば、「とりなし」ということであります。祭司は神と人との間に立って、この世の人たちに神を示す。あるいは、この世の人たちに先だって、その人たちの分まで代わって、神の御前に立つ。
そのようにして、神と人との間をとりなす務めであります。私たちの教会が、そしてここに集っておられるお互いが、今、神に対して、またこの世界全体に対して、そのような祭司の務めを負わせられているというのであります。
「とりなし」は家庭にあって夫のため、妻のため、子どもたちのために祈りと具体的な愛の働きをとおしてなされます。職場や地域にあっても同様です。
 そして、この世から選び出され、神のものとして召し出されたキリスト者は、この世界全体の救いのために、再びこの世に遣わされているのです。

まとめ:
 ある聖書注解者の言葉を紹介してメッセージをまとめます。
「神の御心に背き、神を忘れ、神のもとから迷い出てしまっているこの世界、罪の暗闇に閉ざされているかに思えるこの世界のただ中で、この世界をとりなしつつ、世界全体に先駆けて、驚くべき光に照らされながら、神の栄光をたたえる群れとして生きるのです。それが神のものとされた民の務めだと言うのです。」
 皆さんの上に神の豊かな祝福をお祈り致します。


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