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2006/09/10(日)
「愛のきずなで導かれ」大嶋博道牧師
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聖日礼拝(聖書)ホセア書11:1〜12
序 論: 預言者ホセアについて ホセアは紀元前750-725年頃に活動した北王国イスラエルの預言者です。その頃のイスラエルといえば、歴史的にはアッシリアに滅ぼされる直前の時代で、国内は宗教的にも道徳的にも混乱し、退廃して危機的状態でした。
ホセア書のポイント ホセア書は預言者ホセアが不貞の妻ゴメルを決して見捨てず、見放さず「憐れみと赦しと忍耐」をもって極みまでも愛し続けたことを読者に伝えています。と共に、ホセア自身の結婚生活の体験から、イスラエルを選び、宝の民とされた神が、他の神々や偶像に心奪われ、罪を犯し続けるイスラエルの民を決して審かず、見捨てず、いかに愛と真実をもって導かれたかということを私たちに語っています。
本 論: 今朝のテキストから、「愛の絆をもって導かれる」神様のすがたを見ておきましょう。 聖書の中で「愛のきずな」という言葉が使われているのはこの箇所と新約聖書のコロサイ3:14です。伝道者パウロ先生はこう述べています。 「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」 愛は「完成の絆」あるいは「完全の帯」というのです。「絆・帯」と訳されたギリシャ語〈シンデスモス〉は「二つ以上のものを一つにまとめる手段」という深い意味があり、紐、綱、また環という意味もあります。更に[縛る]とも訳されます。要するに神様は私たちを常に「愛の絆で導いて下さる」・・・・と言うのです。 その具体的な内容が、8〜9節に記されています。神のヘセド(切実な熱愛)です。 「愛のきずな」で導いておられる神様の姿を二つ見ておきましょう。
(1)神は決して見捨てない (創世記28:15 ヨシュア1:5) 見捨てないとか見放さないというのは、最後まで関わり、責任を負って、最善に計らって下さるという意味で、神様の愛のきずなの導きを具体的に表しています。マザーテレサは「最も悲惨な病気は、自分は誰からも必要とされていない、見捨てられているという孤独である」と語っています。神様はそのような私たちに「生涯の終わりまで共にいること」を約束しておられるのです。
(2)神は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれるお方である。 神様の愛は、憐れみに胸を焼かれるほど激しく、深いものです。出エジプト20:5に「熱情の神」という言葉があります。それは「嫉妬する神」です。 それほど神は激しく集中的に私たちに愛を傾けて下さるのです。 それはイエス・キリストの十字架の贖いの死においてさらに具体的に示されました。
まとめ: 私たちの信仰生活も家庭生活もすべて「愛のきずな」で導かれているのです。ですから、日々、喜びと感謝をもって仕事や家庭生活や育児に、さらに信仰生活に励みたいと願います。
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