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2006/09/03(日)
「この世に生きる神の民」 大嶋博道牧師
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総員礼拝 (聖書)ペトロ一2:9〜10 今朝のメッセージの主題は「この世に生きる神の民」ですが、この主題には私たちキリスト者にとって二つの大切なことが含まれています。一つは「神の民としてのキリスト者」、もう一つは「この世に生きるキリスト者」のあり方です。
(1)神の民としてのキリスト者 1ペトロ2:9に小アジアに散在するキリスト者を指して、あなたがたは「選ばれた民」である、「王の系統を引く祭司」である、「聖なる国民」である、「神のものとなった民」である、と呼んでいます。21世紀に生きる私たちも「神の民」と呼ばれる存在です。ウエスレーが言うように「神の民」とは「特選の民」「神に買い取られた民」です。「神の民」としてのキリスト者あり方は、
@イエス・キリストを徹底的に「主」とすること(ヨハネ20:28) 「主とする」ということは、このお方のみを救い主とすること、生活の柱、中心に据えて生きることです。「神の民」というのは、イエス・キリストを生きる限り、どこにおいても、どんな時にも「主」とすることです。
Aイエス・キリストを一途に「見つめながら」走り抜くということ。(ヘブライ12:2) 「見つめながら」(アフォラオー)は見極める、凝視する、注目すると言う意味があります。イエス・キリストに繋がり続け、結ばれて生活する―具体的には、日曜ごとの礼拝生活を重んじる、み言葉と祈りによる日々のデボーションの励行、これが「神の民」としてのキリスト者のあり方です。
(2)この世に生きるキリスト者 聖書には、この世に生きるキリスト者の具体的な生き方がいろいろな箇所に紹介されています。(ローマ12:9〜21、コロサイ3:12〜17など) しかし、今朝のテキストによりますと、神のものとされた民は、また「王の系統を引く祭司」と呼ばれています。 祭司は、旧約聖書の時代から、とても大切な役目を担っていました。それを一言でいうならば、「とりなし」ということであります。祭司は神と人との間に立って、この世の人たちに神を示す。あるいは、この世の人たちに先だって、その人たちの分まで代わって、神の御前に立つ。 そのようにして、神と人との間をとりなす務めであります。私たちの教会が、そしてここに集っておられるお互いが、今、神に対して、またこの世界全体に対して、そのような祭司の務めを負わせられているというのであります。 「とりなし」は家庭にあって夫のため、妻のため、子どもたちのために祈りと具体的な愛の働きをとおしてなされます。職場や地域にあっても同様です。 そして、この世から選び出され、神のものとして召し出されたキリスト者は、この世界全体の救いのために、再びこの世に遣わされているのです。
まとめ: ある聖書注解者の言葉を紹介してメッセージをまとめます。 「神の御心に背き、神を忘れ、神のもとから迷い出てしまっているこの世界、罪の暗闇に閉ざされているかに思えるこの世界のただ中で、この世界をとりなしつつ、世界全体に先駆けて、驚くべき光に照らされながら、神の栄光をたたえる群れとして生きるのです。それが神のものとされた民の務めだと言うのです。」 皆さんの上に神の豊かな祝福をお祈り致します。
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