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2007/01/21(日) 「イエスの名によって」〜伝道的視点に立って 大嶋博道牧師
聖日礼拝  (聖書)使徒言行録3:1〜10

はじめに:
 聖霊に満たされたペトロが「美しい門」の側に置かれた足の不自由な男を立ち上がらせた奇跡物語は、この2000年の間ずっと「イエスの名によって歩く」ことの意義を読者に伝えてきた。が、今回はこのテキストを「伝道的視点」に立って学んでみたい。

だれに伝道するのか?:
 この男は施しを乞うために、神殿の門の側に毎日「置いてもらっていた」のである。荷物のように運ばれて「捨て置かれていた」とも読める。まさに生きる意味や目的が分からないまま虚しく惰性的に生きる現代人の姿ではないか!ペトロの伝道の対象が40年余り足の不自由な男だったように、私たちのそれも激動のこの世に「置かれている」傷つき疲れた人々であることを忘れてはならない。

まず関わることから:
聖霊体験(使徒2:4)を経て、新しく造り変えられたペトロは「彼をじっと見た」のである。
言語の「アテニゾー」は注視するという意味で、この男と深く関わろうとするペトロの姿勢が表れている。伝道とは、まず関心をもって家族や友人や職場の仲間を見つめることである。祈りをもって、訪問や電話をとおして、信仰の書物をとおして、直接出会って「アテニゾー」(見つめ、関わること)することこそ大事なことである。

現代人へのメッセージ:
「イエスの名によって立ち上がり、歩きなさい。」―ペトロが美しの門の側に捨て置かれた男に語ったこの言葉こそ、疲弊した現代人への伝道メッセージである。
いったい「イエスの名」はどのような意味を持つのであろうか。
@イエスの名はインマヌエル(神、我らと共にいます)であり、すべての人を救い得る名であり(使徒4・12)すべての名にまさる名である。(フィリピ2・9 )
Aイエスの名は神と人とを仲介すると共に、人と人を結びつける。
Bイエスの名は、権威・力・その貴い働きのすべてがその中に込められている。だから、ペトロではなく、イエスの名が「捨て置かれていた」男の足を癒したのである。
 また、イエスの名によって歩くとは、信仰によって生きることであり、神の言葉である聖書に基づいて生活することである。その時、人は罪から解放されて平安を得、喜びと感謝をもって歩き始めるのである。

真の礼拝者として:
癒されたこの男は「神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」とある。(使徒3・8 )
伝道の目指すゴールは真の礼拝者を産み出すことであろう。主に贖われた者たちが毎週、喜びと感謝をもって礼拝に集い、霊的活力をいただいて、再びこの世に派遣される―これこそ伝道の結実である。今日からまた、伝道の主体である「神のミッション(Missio Dei)」に共に参与したいものである。


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