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2007/10/28(日) 「あなたはどこに立つか」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)創世記3:1〜10

はじめに:
 私たちは日常生活の中で自分の居場所を探し求めます。自分の居場所を探すということは自分の存在をそこに感じることであり、生きる意味・目的をそこで確認できるからです。居場所があれば、生きる充実感や喜びが生まれ、無ければ生き甲斐が得られず、孤独感や不安感や空虚感を強く覚えます。

序 論:
 では、私たちはどこに居場所を求めれば良いのでしょうか。今日のみ言葉では神様は私たちに「あなたはどこにいるのか」と尋ねられています。
この問いは、神様が人間に初めて問いかけられた問いでした。(創世記3:9、4:9参照)創世記によると、人は神の約束を破り、罪を犯した瞬間、目が開かれ、自分たちが裸であることを知り、いちじくの葉っぱをつづり合わせて、腰を覆ったのです。そして、神の顔をさけて(神の臨在から遠ざかり)園の木の間に隠れたのです。

 神様はアダムに「あなたはどこにいるのか」と問われます。それは、アダムの隠れている場所が分からなかったからではないのです。人間存在の本質を問う大事な問いなのです。
それは
@あなたはいったい何をしたのか?(過去の生き方を問うている)
Aあなたの心は今どのように感じているのか。(現在、今、どのような有り様かを問うている)
Bあなたはこれからどう生きるのか。(未来に向かって生き方を問うている)

本 論:
人間は「応答する存在」と言われています。生きるとは何かに、誰かに真実に応答すること(to response)です。責任(responsibility)とは応答する能力(response-ability)のことなのです。
アダムは正しく応答することができませんでした。わたしたちの本来おるべきところは「神との霊的な交わりの中」であります。それが正しい答えなのです。
Tヨハネ1章3節に「わたしたちが見、また聞いたことをあなたがたに伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」とある通りです。
霊的交わりは、礼拝生活におけるみ言葉への傾聴、日々のデボーションをとおしてのみ言葉と讃美と祈りをとおしてなされるものです。信仰によって常に神のみ前に留まる生活のことです。

 アダムが答えるべき「居場所の答え」は「わたしはあなたに対して罪を犯しました。お赦しください。そして、これからもあなたの内に居らせてください」と答えるべきだったのです。イエス・キリストは「わたしにつながっていなさい」と言われました。(ヨハネ15:6)生涯、イエス・キリストに留まり続けること、神との霊的交わりの中に生きること、これこそ私たちは立つべきところです。祝福をお祈り致します。

2007/10/21(日) 「天国のことを学んだ学者のように」(説教)副島 恵 先生
「特別礼拝」(聖書)マタイ13:44〜52 
はじめに:
 主イエスは天の国とはどういうもので、天の国を得るとはどういうことかを示すたとえとして、畑に隠された宝を見つけた人のことを語られた(13:44)。このたとえ話から、私たちはどのようなことを読み取ることができるだろう。

序 論: 
第一に、「天の国」は隠された宝だということである。「天の国」とは、神様のご支配という意味である。私たちの人生は、神様が支配しておられる畑である。

 第二に、隠された宝を、見つけた人がいるということである。隠された宝を見つけた人とは、礼拝に集っている私たちのことである。信仰は、隠された宝を見出すことである。
信仰者である私たちは、「天の国」、神様のご支配という隠された宝を見出したのである。しかし宝を見出したからといって、直ちに宝が私たちのものになるわけではない。
 
第三に、畑に隠された宝を見つけた人は、「喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(13:44)のである。そうすることによって、発見した宝を自分のものにすることができるのである。そのことは13章45,46節「真珠商人のたとえ」にも語られている。畑に隠された宝を見つけた人と、真珠商人のたとえは持ち物をすっかり売り払って宝を手に入れるという点で共通している。
 二つのたとえが教えているのは、「天の国」という隠された宝、「高価な真珠」を、何物にも代え難い宝として、本当に真剣に求めていくことであり、それを得るために全力を尽していくことである。
 
 13章47節以下には、魚の網のたとえが語られている。魚の網のたとえが語るのは、私たちは既に、神様の大きな網の中に捕えられているということである。私たちを捕え、支配しているのは、神様の網であり、恵みのご支配という網なのである。
 
本 論: 
主イエスは弟子たちを相手にこれらのたとえをもって語られた。そして「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」(13:51)と問いかけられた。すると弟子たちは「分かりました」(13:51)と言った。弟子たちは、天の国の秘密を、つまり隠されている宝を理解したのである。弟子たちが「天の国」の秘密を悟ることができたのは、彼らが主イエスの弟子だったからである。主イエスは、今も私たちを主の弟子へと招いて下さったている。

 主イエスは「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(13:52)と言われた。天の国の秘密を悟り、その隠された宝を手に入れようと立ち上がった弟子たちのことを、つまり私たちのことを、「天の国のことを学んだ学者」と言われるのである。天の国のことを学んだ学者になると何ができるのでだろうか。

 学者はその知識を縦横に駆使することがでる。そして、起こってくる様々な疑問に答え、混乱した事態を整理することができる。私たちは「天の国」について、そういう学者になることができるのである。「私たちが生かされているこの世界は、神様が支配しておられる神様の畑であり、私たちの人生は神様の網の中にある」ということをはっきりと信じ、知っている者は、この世に、またそれぞれの人生に起こってくる様々な疑問や混乱の中
で、答えを見出すことができるのである。天の国のことを学んだ学者である私たちは、この世の目に見える現実に惑わされることなく、喜びを失うことなく解放されて自由に生きることができる。それが、私たち天の国のことを学んだ学者の姿である。

まとめ: 
 私たちは、天の国の事を学んだ学者として、それぞれの持ち場立場で喜びをもって神様の恵みのご支配を告げ知らせていく者となろうではありませんか。

2007/10/14(日) 「一羽のすずめさえも」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)イザヤ43:1〜5/ルカ12:6

はじめに:
 先ほど愛唱聖句を紹介された植村真夫兄や証しをされた滝谷順子先生は本当に神様に愛されております。神様はこれらの方々を愛のみ手の中に丸ごと包み込んで下さるのです。なぜ、それほどまでに神様は私たちを愛し、「あなたは高価で貴い」と言われるのでしょうか?いったい私たちのいのち(存在)は本当にかけがえのない貴いものなのでしょうか?
本 論: 
いのちがなぜこれほどまでに高価で貴いのかを聖書から学びましょう。
(1)いのちの始まりは神のみ手にあるから。―
いのちの創造者は人間でなく神なのです。創世記2:7に「主なる神は土の塵で人を形つくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」とあります。これがいのちの始まりです。人間に与えられた“ビオス(肉体の命)とゾーエー(人格的、霊的)のいのち”は、神が所有者なのです。私たちはただ生かされている間、神からいのちを預かっているだけです。神から預かったいのちを可能な限り大切に、丁寧に意味深く活用すべきです。

(2)いのちは固有であり、一回限りだから。―
私たちは一度限りのいのちしか与えられていません。しかもリハーサル(予行演習)もなければ、リピート(繰り返し)も出来ません。リセット(一度死んでやり直す)はもちろん不可能です。人生はただ一度で、いのちは二つとないのです。「もう一度生まれ変わったら・・・・」と言いますが、肉体的にもう一度生まれることはあり得ないのです。しかも、いのちには同じものが絶対ありません。地球上の60億人のいのちはみな固有(特有)です。

(3)人生にはなさねばならない目的があるから。―
 「使命」という言葉があります。大切ないのちはだれかのために、何かのために使うためにあるのです。それを私は今まで「応答(respnse)」と言ってきました。生きることは「応答する」ことなのです。いのちは必要とされるところに、応答するためにあるのです。
親は子どもに応答し、教師は生徒に応答し、医師は患者に応答し、クリスチャンは神に真実に応答します。それが生きる目的なのです。

(4)神様が「高価で貴い」(宝の民)と認められたから。
 元より、聖書は「あなたは高価で貴い。わたしはあなたを愛している」という神の約束を明言しています。よく失敗し、失言し、欠けだらけの私にどれほどの値打ちがあるのかわかりませんが、その私のすべてを包み込んで「高価だよ」と言ってくれるのです。これほど嬉しいことはありません。

まとめ:
「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」 当時、すずめ二羽が1アサリオンで売られていました。ここで主イエスがおっしゃりたいのは、最も小さな存在に目を留めてくださる神の「愛の大きさ」です。一羽のすずめさえこのように配慮して下さるなら、私たち人間においてはなおさらです。あなたのいのちは「高価で貴い」のです。 心から感謝し、喜びと感謝と希望をもって歩んで行きたいものです。

2007/10/07(日) 「生きるにも死ぬにも」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)フィリピ1:21〜22

はじめに:
 ここにお集まりの皆さんは一度は「自分は何のために生きているのか」ということを自らに問うてみたことがあると思います。生きる意味や目的は「関係」によって初めて生じるものです。例えば、私と家族(夫や妻、子ども、兄弟姉妹)、私と職場での仕事や仲間、あるいは私と地域(団地や自治会)という関わりにおいて見出されるものです。

クリスチャンの場合は、神との関係の中で、生きる意味や目的を見出しているわけです。
神との関係の中で今、どういう位置にあるのか、神の前にあって、自分はどういう存在として位置づけられているのか、極めて本質的な問題を見つめることができます。

序 論:
 今朝はフィリピの信徒への手紙からのメッセージです。
パウロはエルサレムで捕えられて以来、カイザリヤ護送されてそこで約2年、またローマへ移されてからも2年以上ローマの官憲の監視の下で生活をしました。比較的自由のある、軟禁状態であったと考えられています。彼は獄中でフィリピの教会の信徒たちに手紙を書き送ったのです。

パウロの人生観(フィリピ1:12〜26)
パウロは強烈な人生観を持っていました。今日の箇所はパウロの命懸けの告白です。
1:21「わたしにとって生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」
また、生きるにしても、死ぬにしても、自分の生き様によってキリストが公然とあがめられることを切に願う、と述べています。(その他、ローマ14:8,ガラテヤ2:20参照)

本 論:
もう一度、「生きることはキリスト、死ぬことは利益です」に目を向けましょう。
ここには幾つかの大切な意味があります。
(1)私の人生の主−司るお方(アルファでありオメガ)はイエス・キリストです。生も死も支配し、責任をもっておられるお方はイエス・キリストである。

(2)私の人生の導き手(ナビゲーター・羅針盤・管制塔)はイエス・キリストです

(3)私の人生を美しく彩るお方はイエス・キリストである。
「刺繍」というエッセーを一度紹介したことがあります。まさにあれですね。
私たちの人生の中で出会う試練や苦難など様々な体験をとおして、神様は最終的には私たちの人生を最善に導いて下さるのです。「美しく彩る」とはそのことなのです。

まとめ:
最後に、パウロは1:20で「わたしの身によって、キリストが公然とあがめられるようにと切に願う」と述べています。
 パウロの場合は、おそらくやがて自分は裁判の場に引きづり出され、人生最後の時が時がくる、その時、恐れず、恥じることなく、大胆に自分がキリストを信じる者であることを証ししよう、という決意を述べている言葉であります。
 この朝の礼拝で、「生きるにも死ぬにも」という題のもとにメッセージを聴きましたが、お互いに、「生きるにも死ぬにも、私の身によって、ただ、キリストが公然とあがめられるように」人生を最後まで全うしたいものです。
 「崇められる」とは「大きくされる」とか、別の表現をすると「キリストが常に第一のこととされる、第一のお方とされる」ということになるのです。

19世紀の聖書学者エリコットは「わたしのからだはキリストの栄光が現れる劇場である」と述べています。
「生きるとはキリストであり、死ぬことは利益です」と日々、告白しつつ、 自らのからだを、全存在をキ
リストの栄光が現れる劇場にしたいものです。」
祝福をお祈り致します。


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