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2007/11/25(日) 「祝福の源なる礼拝」大嶋博道牧師
収穫感謝礼拝 創世記26:15〜25

序 論:
 まず、最初に私たちが信じる天地創造の神様は「祝福をもたらす神」であり、「祝福の源としての神」であります。
@天地万物の祝福(創世記1:4「神は光を見て、良しとされた」1:31など。
A第七日目の祝福 (創世記2:3「第七の日を神は祝福し、聖別された」
B被造物としての人間の祝福(創世記5:1「創造の日に、彼らを祝福されて)
Cアブラハム&イサク&ヤコブなど族長の祝福(創世記12章,26章,28章等では、聖書が言う「祝福」とは何か?
目に見える神の祝福―お金がもうかること、健康であること、人に認められたり物事がうまく行くこと、自分の何かの願いが適うことなど以上のものです。
目に見えない霊的祝福―(エフェソ1:3〜5参照) 罪の赦しと永遠の救い、喜び、平安、希望等。祝福とは、神様の恵み、さいわい、守り、平安が私たちの生活の中に満ちあふれ、全生涯を包み込むこと。

本 論:
創世記26:15〜25のイサクの生涯の一こまから私たちが「祝福を受け継ぐ」あり方を学びたいと思います。

(1)神の言葉に従順に従ったイサク (創世記26:1〜6)
イサクは神から命じられた通り、その言葉に従い、飢饉の間、ゲラルに寄留することになります。この地でイサクは次々と試練に遭いましたが、神の言葉に委ねた彼はここで大きな祝福にあずかることができたのです。

(2)人と争わなかったイサク(創世記26:15〜4)
 イサクは掘った井戸をめぐってペリシテ人と争うことをしなかったので、神様はイサクを祝され、新しい井戸を与えられたのです。決して人と争わない時、神様は私達に「広い場所(レホボト)」を与えてくださるのです。イサクのこの穏やかな生き方が祝福をもたらしたのです。

(3)祭壇を築いて主の名を呼んだイサク(創世記26:25)
 イサクは神様の御旨を思い巡らし、神様に近づいた人です。イサクは節目に、アブラハムと同じように、祭壇を築いて主の御名を呼んで礼拝しました。
@アブラハムも祭壇を築いた(12:7〜8、13:8)
Aイサクも祭壇を築いた(26:25)
Bヤコブも祭壇を築いた(創世記28:18,33:20,35:1〜7)
主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人を神様は祝福されます。

まとめ:
 忙しいことを理由に、神様に近づくことを止めてはいけないのです。神様との親密な関係を保ち、神様と共に歩むこと、そして、節目にはその場所を聖別して祈りとみ言葉の祭壇を築いて礼拝する、これが祝福を受け継ぐ秘訣です。

2007/11/18(日) 「召しにふさわしい歩み」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)エフェソ4:1〜6

昨年、私たちの教会標語として、「召しにふさわしい生活」が与えられ、この聖書の箇所から学びました。本日、改めて、キリスト者に与えられた召しの意味を学びたいと思います。

序論:
今日のテーマ、命題は「それぞれの召しにふさわしく歩む」と言うことです。そしてその答えは「召してくださった方の思いに添うように生きる」と言うことです。「召してくださる方」とは天地創造の「主」であるから私たちはその召してくださった方の全ての面に倣って「聖なる者」とならなければなりません。私たちは神によって「買い取られた者」であり、「神に所属するもの」であるから召された者としてふさわしく歩んで行かねばなりません。

本 論:
「召されたものにふさわしい歩み」方とは具体的には次の4つの歩み方です。
@高ぶる事なく(謙遜で)柔和で寛容な心を持つことがその第1の生き方です。そのためには、自分の本能や情熱や思い通りの行動を制御しなければなりません。怒りと言う事に譬えでみる「ふさわしい時に怒っても、間違った時には決して怒らない」事です。そして、自分が精一杯した後ででもなお十分でなかったと思い「主よ、お赦しください」と言える心を持つことが大切です。

A第2の事は「寛容に」と言うことです。「寛容」とは神が人に対する寛容を表す言葉であり、この意味で、私たちはキリストに倣う者として「キリスト者がほかの人に対して寛大な態度を表す」事が求められています。

B第3の事は「愛をもって互いに忍び合う」と言うことです。
ここで「忍び合う」と言う言葉には「赦す〜受け入れる」と言う意味があります。
コロサイ3章13節に「主があなた方を赦してくださったようにあなたがたもそういなさい」とあります。私たちもこのように我慢して赦し合う事が求められているのです

C最後に求められている事は「平和のきずにで結ばれて御霊の一致を保つ」と言うことです。
「平和」〜「キリストこそがわたしたちの平和」なのですから、私たちはキリストによって〜キリストと言う平和の絆によって、キリストと言う帯によって御霊の一致を熱心に保たねばならないのです。

 このようにして、私たちは主の召しにふさわしい者とされて歩みたいものです。神様は必ず、召して下さった者を豊かに祝福して下さいます。

2007/11/11(日) 「なぜ、子どものようになのか」大嶋博道牧師
子ども祝福礼拝 (聖書)マルコ10:13〜16

 今日は礼拝の中で7歳以下の「子ども祝福式」を行います。
「教会ではなぜ子どもの祝福式をするのか」と言う理由については次の3つのことが考えられます。
@子どもたちの命は神から預かったもので、信仰と希望と愛とをもって祈りのうちに育くむことが大事というのがその第1の理由です。
A第2の理由は子どもは次の世代を担っていく「宝」だからです。 
Bそして第3の理由は、キリストが子どもを招かれ、抱き上げられ 祝福されたからです。(マルコ10:16参照)

●序 論:
 今日のみ言葉にある「子どものように」と言うのはどういう意味なのでしょうか。昨今の子どもはわがままで、なかなか言うことを聞かず、時には悪いことをして罪を犯します。そのような子どものことではなく、この箇所で使われている「子ども(ブレフォー)」とは「乳・幼児」を指します。乳飲み子、胎児のような小さな子どものことなのです。このような小さな子どもは計算も打算も理屈もなくてきわめて単純で素朴で素直な心を持っています。自分の力に頼らない存在、「信頼」と「依存」の存在です。
 イエス・キリストはこのような乳飲み子を指して「子どものようにならなければ神の国に入ることは決してできない」と言われたのです。しかも、この言葉は子どもにではなく、大人である私たちに向かって言われたのです。

●本 論
「子どものように」とはどのような信仰の姿勢を意味しているのでしょうか。
@第1の事は神の愛の中に身を置く(ヨハネ5章9節)事です。それは、ヨハネ15章9節に「私の愛の内におりなさい」とある通りです。私は神様に愛されている、と言う事を確信する事です。

A第2の事は、神の創造のみ業の中に委ねて生きる、と言う事です。(詩19章1〜5節)小さな幼子が全面的に親に頼っているように私たちも全存在をもって神様に委ねて生きると言う事が大切です。

B更に第3の事は、子どものように謙虚に生きる(エペソ4章2節)と言う事です。
 結論的には、マルコ10章43節にあるように「仕える者として、全ての人の僕となってへりくだって生きる」事が子どものようになって神の国を求める有り様なのです。

 アウグスチヌスは高慢な青年の「救われるために何が必要か」に対して「一に謙遜、二に謙遜、三に謙遜」と言いました。謙遜に生きることこそ「神の国」を求める者のあるべき態度です。その事を今日のみ言葉から学びたいと思います。

2007/11/04(日) 「人生の四季を生きる」大嶋博道牧師
召天者追悼記念礼拝 (聖書)コヘレト3:1〜11

はじめに:
今日は、召天者追悼記念礼拝を守ります。在りし日の故人のお写真を正面に飾って、故人を偲ぶと共に、私たちの生き方を聖書から学びたいと思います。

序 論:
ポールトウルニエは、私たちの人生を「四季」にたとえて、春(0才〜20才頃)夏(20才から40才頃)・秋(40才から60才頃)・冬(60才以上)としました。
今日では平均寿命が伸びているので、10年〜15年ぐらいのズレはあると思います。
そして、それぞれの年代には生きる課題(テーマ)があることを教えています。
春の時代は徹底的に服従することを学び、夏の時代はひたすら活動し、豊かに実を結ぶこと、秋の時代は自分の人生を見直し、価値の転換をはかること、そして冬の時代が訪れたら、断念することすなわち捨てることを学ばなければならないと教えています。
今朝拓いたテキストにも私たちには季節があり「時」があることを教えています。
この「時」というのは、神が直接かかわってくださる「カイロス」の時をさしています。
それは、決定的な時、神の聖なる時、決断の時であります。

本 論:
今日のみ言葉から次の2つの事を学びます。
@私たちの生活には神様が予め決めておられる時(カイロスの時)があります。出来事には偶然はありません。人間の偶然は神の必然であります。神様によって定められた時〜大切な必然の、定められた時があります。神様が時を与えてくださらなければ私たちは何もする事はできないのです。詩人は「私の時は神様のみ手の中にあります。」(詩編31:15)と告白しています。私たちは神様の時の中におかれています。神様のご支配の中に生かされているのです。まさに「In His Time」を生きているわけです。ですから、安心して神のみ手にゆだねて生きて行きたいものです。

A神様は全て時宜にかなったように作られます。どんな時にも神様は最もふさわしいように作られ、もっともふさわしいように時を与えられます。「ヤーフェー」というヘブル語は赤ちゃんを見たときにだれもが感じる「かわいい」というあの思いと同じものです。神のなされる「時」は本当に「かわいい」、「ふさわしい」、「適している」のです。
 それはロマ8章28節に次のように記されているとおりです。「神を愛する者たち、つまり御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くと言うことを、私たちは知っています」

まとめ:
神様が最善をなしてくださる、万事を益となるように共に働いてくださると言う信仰をもってこれからの人生を歩んで行きたいものです。祝福をお祈り致します。


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