|
2007/11/11(日)
「なぜ、子どものようになのか」大嶋博道牧師
|
|
|
子ども祝福礼拝 (聖書)マルコ10:13〜16 今日は礼拝の中で7歳以下の「子ども祝福式」を行います。 「教会ではなぜ子どもの祝福式をするのか」と言う理由については次の3つのことが考えられます。 @子どもたちの命は神から預かったもので、信仰と希望と愛とをもって祈りのうちに育くむことが大事というのがその第1の理由です。 A第2の理由は子どもは次の世代を担っていく「宝」だからです。 Bそして第3の理由は、キリストが子どもを招かれ、抱き上げられ 祝福されたからです。(マルコ10:16参照)
●序 論: 今日のみ言葉にある「子どものように」と言うのはどういう意味なのでしょうか。昨今の子どもはわがままで、なかなか言うことを聞かず、時には悪いことをして罪を犯します。そのような子どものことではなく、この箇所で使われている「子ども(ブレフォー)」とは「乳・幼児」を指します。乳飲み子、胎児のような小さな子どものことなのです。このような小さな子どもは計算も打算も理屈もなくてきわめて単純で素朴で素直な心を持っています。自分の力に頼らない存在、「信頼」と「依存」の存在です。 イエス・キリストはこのような乳飲み子を指して「子どものようにならなければ神の国に入ることは決してできない」と言われたのです。しかも、この言葉は子どもにではなく、大人である私たちに向かって言われたのです。
●本 論 「子どものように」とはどのような信仰の姿勢を意味しているのでしょうか。 @第1の事は神の愛の中に身を置く(ヨハネ5章9節)事です。それは、ヨハネ15章9節に「私の愛の内におりなさい」とある通りです。私は神様に愛されている、と言う事を確信する事です。
A第2の事は、神の創造のみ業の中に委ねて生きる、と言う事です。(詩19章1〜5節)小さな幼子が全面的に親に頼っているように私たちも全存在をもって神様に委ねて生きると言う事が大切です。
B更に第3の事は、子どものように謙虚に生きる(エペソ4章2節)と言う事です。 結論的には、マルコ10章43節にあるように「仕える者として、全ての人の僕となってへりくだって生きる」事が子どものようになって神の国を求める有り様なのです。
アウグスチヌスは高慢な青年の「救われるために何が必要か」に対して「一に謙遜、二に謙遜、三に謙遜」と言いました。謙遜に生きることこそ「神の国」を求める者のあるべき態度です。その事を今日のみ言葉から学びたいと思います。
|
|
|