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2007/12/30(日) 「アルファでありオメガなるお方」大嶋博道牧師
年末感謝礼拝 (聖書)ヨハネ黙示録22:6〜13

序 論:
 2007年の歩みもあと一日を残すのみとなりました。まさに大晦日です。
この一年の歩みを振り返り、感謝・懺悔(悔い改め)・幾つかの確認をしながら、迎える2008年に備えたいと願います。

今朝のテキストは黙示録22:13「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして最後の者。初めであり、終わりである。」 アルファとはギリシャ文字の最初の文字で、オメガとが最後の文字のことです。これは黙示録全体を貫いているカギになる言葉で、イエス・キリストが誰であるのかを明らかにした言
葉です。(黙示録1:8参照、21:6参照、そして22:13参照)
 
「初め」というギリシャ語の「アルケー」はすべてのものの根源、起源という意味を持っています。つまり、神を根源・起源としてすべてのことが起こっているということですね。また、「終わり」というギリシャ語の「テロス」は目的、終局という「意味を持っています。つまり、すべてのものが完成し、終わることということです。ヘブライの著者はこれを「創始者であり完成者」と表現しています。
(ヘブライ12:2)私たちの信仰生活、人生そのものに「初めであり終わりであるお方」「創始者であり完成者であるお方」が関わって下さり、導き、守り、支え、万事を益として下さる。

本 論:
 さて、「アルファでありオメガである」神とはどのようなお方なのか?
(1)神は完全なお方である。欠けるものがない。
(2)神は永遠である。時間に制約されない、無限なるお方である。
(3)神は権威をもっておられる。
私ちが求められているのは、このアルファでありオメガ(最初であり最後、初めであり終わり)であるお方にどれだけ忠実であったか?でありましょう。

今年、私たちは神に対して全身全霊を込めて信仰をもって従ってきたか?
(1)み言葉の約束を信じて、み心のまま生きてきたか?
(2)与えられた賜物(タラント)を十分に活用したか?(時間・財・能力など)
(3)謙遜の限りを尽くして仕えてきたか?
(4)喜びや感謝に満たされて歩んできたか?
(5)栄光を主に帰してきたか?(誉れは主、恥はわがもの。)
ソリ デオ グロリア(ただ神にのみ栄光があるように)の信仰です。

まとめ:
 神様はこのような信仰の歩みをするキリスト者をさらに豊かに祝福して下さることでしょう。新しい年に大いに期待しましょう。アルファであり、オメガなるお方、創始者であり完成者であるお方、歴史の初めから終わりまでを支配して、導いておられるお方に。     

2007/12/23(日) 「命をかけた告白」大嶋博道牧師
クリスマス礼拝・洗礼式 (聖書)マルコ15:33〜41

イエス・キリストのご降誕を心からお祝い申し上げます。
序 論:
クリスマスには東方の占星術の学者たちや貧しい羊飼いたちが登場し、救い主の誕生物語を彩りますが、クリスマスは十字架の出来事に連結しています。ですから、十字架をとおしてイエスの誕生を見てみるのも意味あることです。

そういう意味で、今朝はイエスの十字架に関する箇所を開いて共に学びましょう。
 今朝の中心的なみ言葉は、39節にある百人隊長の「本当にこの人は神の子だった」と言う命をかけた告白の言葉です。当時のローマの兵隊は皇帝アウグストを神として尊敬していましたから「イエスを神(主)」と告白することは、場合によっては職を奪われ、家族もろとも命を奪われるかも知れない危険なことだったのです。しかし、百人隊長はイエスの十字架の姿を側に立っていてつぶさに目撃した結果、命を賭けて「この人はまことに神の子だった」と言ったのです。

本 論:
さて、命を賭けるとはどういう意味なのでしょうか?皆さんは何かに命を賭けていますか?そのようなメッセージを誰かに伝えていますか?今日の聖書から学ぶ「命をかけた告白」とは、
@全存在をかけてイエスを主と信じ、告白することです。イエスに自分の生涯をかけることです。イエスに人生をかける事を意味します。本気で信じ抜くときに豊かな人生を得ることが出来るのです。(ヘブライ12:1〜2、テモテ二4:7)

Aお金等の不確かものにかけるのではなくて神に望みを置く事です。お金やものは大切ですが、人生を根底から支えるものではありません。言うまでもなく喜びや平安、健康や家族の絆などはそれらで買うことはできません。神の望みを置くということは、目に見えるものではなくて目に見えないものを大切にすると言う事です。

B死に至るまで忠実であると言う事です。生涯を通して忠実〜与えられた役割が大きくても小さくても、目立つものであっても目立たないものであっても持っているものを全て生かして最善を尽くすと言う事です。(黙示録2:10)
 
 クリスマスに際して改めて、ローマの百人隊長のように命をかけてイエス・キリストを信じる告白をしたいものです。イエス・キリストにどんなときにもしっかりと結びついていて欲しいです。豊かな実を結ぶために!

2007/12/16(日) 「再び、さあベツレヘムへ行こう」大嶋博道牧師
アドベント(V)礼拝 (聖書)ルカ2:15〜20

序 論:
 イエス・キリストの誕生の知らせを聴いて、二つのグループの人々が「ベツレヘム」を訪れました。
@東方の占星術の学者たち
 彼らは東方(バビロン地方)から「星」に導かれてベツレヘムの救い主イエスが誕生された場所を訪れ、ひれ伏して幼子を礼拝し、携えてきた黄金・乳香・没薬などの高価な贈り物を献げました。そして、「別の道」を通って自分たちの国へ帰って行ったのです。
A貧しい羊飼いたちの喜び
 一方、ルカは当時の「アム・ハ・アレツ(地の民)」と言われた極貧の羊飼いたちに与えられた大きな喜びを語っています。彼らは定住の家を持たない野宿者でした。その彼らが、天の使いから救い主の誕生を告げられた時、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と口々に交わしながら家畜小屋を探し当て、天の使いが告げたとおりの光景を見ました。羊飼いたちは神をあがめ、賛美しながら帰って行きました。

本 論:
さて、2000年後の現代に生きる私たちも、彼らがかつて訪れたように「ベツレヘム」を訪れたいものです。では、ベツレヘムへ行く意味はどこにあるのでしょうか?
@自分の人生を成り立たせている根拠(土台)である」イエス・キリストに出会うためがその第1の理由です。
彼らは救い主に出会って初めて自分たちの生活を根底から支えているお方が誰であるかに気づいたのです。自分の存在の根拠を見出すことほど大切なことはありません。イエス・キリストは私たちの「土台」です。(コリント一3:11)

A第2にはそのイエス・キリストに出会って礼拝するためです。 
見えざる神の前にひれ伏す事が礼拝です。キリスト者は「礼拝の民」であり、神の前に喜びをもって感謝の礼拝をささげる存在です。日曜ごとの礼拝を重んじ、ウイークデーのデボーション(霊想)を実践したいものです。

Bそして第3の事は、新しい人生の歩みを始めるためです。
ルカ2:20には「神をあがめ、賛美しながら帰った」とあります。救い主イエスに出会った時に新しい生き方が始まります。占星術の学者たちは「別な道」を発見して、新しい歩みを始めるようになったのです。今年の教会標語の「新しいいのちを広げよう」のごとく、救い主イエスに出会い、このお方を信じて生きる時に「新しい豊かな人生」は始まります!

まとめ:
さあ、あなたも新しい人生を歩もうと言う決意が出来るように神様に出会いに「ベツレヘム」に行こうではありませんか。羊飼いは、「さあ、ベツレヘムへ行こう!」と立ち上がりました。「神様がなさることを見に行こう」と思ったのです。
私たちも今日から、また「ベツレヘムへ行こう」と、立ち上がりたいと思います。

2007/12/10(月) 「人と共にいる神」大嶋博道牧師
アドベント礼拝(2) (聖書)マタイ1:18〜25
序 論:
アドベント(待降節)を迎えております。このアドベントの始まりは、今朝の聖書の「ヨセフへの告知」の箇所からであります。マリヤはヨセフとの婚約中に、聖霊によって男の子を宿
しました。ヨセフには痛みを伴う思いがけない出来事でした。マリアが身ごもっていることを知ったヨセフの態度は、通常ならば、
@彼女を姦淫の罪で訴えて、石打の死刑にする。A表沙汰にしないで、ひそかに離縁する。 しかし、離縁したとしても、婚約者を妊娠させたにもかかわらず離縁したということで、ヨセフが世間の非難をあびることになるのです。

 ヨセフはマリアが「姦淫の女」という烙印を押されて、あるいは石打の刑で殺されることよりも、自分が非難を受ける道を選んだのです。このような危機的状況で不安と孤独が支配しているヨセフに夢の中で神様は声をかけられたのです。そしてヨセフは、その夢の中の御使いの言葉通り、マリヤの胎の中の子が聖霊によるものであることを信じ、彼女を妻として迎え入れました。

本 論:
(1)インマヌエルとはどういう意味か?
このことばはヘブル語です。インマヌエルは二つの言葉、インマヌ(われらと共に)とエル(神)を組み合わせた名前です。元々はイザヤ書7:14からきています。(イザヤ8:8,10にも)「インマヌエル」(神が共におられる)は聖書が一貫して強調していること。(創世記26:24、28:15 出エジプト3:12、ヨシュア1:5、イザヤ41:1043:5、マタイ28:20を参照)

(2)インマヌエルの神はどこに共におられるのか?
 神は継続的に私たちと共におられるのです。喜びの時も悲しみの時も、順境の時も逆境の時も「常に」共におられる。「共に」(メタ)は、側近くにいるのではなく、まさに「共に」です。
ですから、インマヌエルの神と私たちの間には「距離がない」わけです。特に、私たちが「孤独」を感じるときに、神は共におられる。

(3)神が共におられるのをどのようにして確信することができるか?
 「神が共におられる」ということを具体的に感じて生きるのは、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、神の子とされたという確信の中に。
@日曜ごとの礼拝生活の中で(特に、説教と聖餐において)
A日々のデボーションの中で(祈りの祭壇を築くこと、そこに留まること。)
B讃美の中に共におられる。 
C私たちが孤独と不安の暗闇が支配する中で。

(4)神が共におられるとどうなるのか?
@恐れや不安から自由になれる(解放される)
A「安心」「平安」が与えられる。(イザヤ41:10、41:13 43:5)
B勇気が与えられる(強く雄々しくされる) (ヨシュア1:5)
C将来と希望が与えられる(エレミヤ29:11)

まとめ:
あなたは決して一人ではない!“神が共におられる”これこそ聖書のメッセージです。このメッセージをしっかり聴き取りながら、インマヌエルに支えられた信仰生活、家庭生活を築き
たいものです。祝福をお祈り致します。

2007/12/02(日) 「もっと大きな賜物を受けるために」畑中康雄勧士
アドベント信徒礼拝 (聖書)コリントの信徒への手紙一12:27〜31

はじめに:
今日からアドベントが始まります。救い主のご降誕を心から待ち望みましょう。さて、コリントの信徒への第1の手紙12章は「教会の一致」を説いた箇所です。このみ言から次の事を学びたいと思います。

@私たちはお互いを必要としていると言う事(14節〜20節)教会が一個の健康体であるためには互いに無視し合ったり、批判したりするのではなくて、全てがその与えられた賜物に応じて奉仕する事の必要性

Aお互いに尊重しあわなければならないと言う事(21〜25節)体のある部分は他の部分よりも大切であると言えないように神様の目から見れば全てが神様の体の一部分の働きをしているので、お互いがその働きを尊敬し合い、しかも弱いところを補い合
いながら一つの体の働きをしなければならないと言う事を学ぶ事の必要性

B共に苦しみ、共に喜ぶ存在とならなければならないと言う事(26〜27節)互いに配慮しあいながら体の一部分が痛みを感じると全体が痛むように、教会も苦しむ者とともに苦しみ、喜ぶ者と共に喜ぶ存在にならなければならないと言う事を学ぶ事の
必要性

 12章ではまた、「賜物の多様性」「奉仕の多様性」「働きの多様性」が述べられています。即ち神からそれぞれ異なった賜物を与えられているが、それらの賜物は全て同じ神から出ており、その多様性の中に霊的な一致があり、それぞれが与えられた異なる賜物を使い切る時に一つの体となって働くと今日のみ言葉は教えています。

 そして28節からは教会の中に神様は「使徒」「預言者」「教師」「奇跡を行う者」「病気をいやす賜物を持つ物」「援助する者」「管理する者」「異言を語る者」などをお立てになったがみんなが同じ賜物を持っているのではなくて、それぞりが与えられた賜物を生かして奉仕をする事によって教会の働きを完成させるのであると語られた後に、31節で「もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」と締めくくっています。
 
これは最も必要とされる賜物である「愛の道」について教えようと約束しておられるのです。私たちの小さな一つ一つの働きが神様の大切な体の部分の働きであり、そのような働きを通してより大きな神様の働きが、み心が〜愛の業が〜成る事を信じて私たちに与えられている賜物を生かす働きをしたい思います。  


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