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2007/12/10(月)
「人と共にいる神」大嶋博道牧師
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アドベント礼拝(2) (聖書)マタイ1:18〜25 序 論: アドベント(待降節)を迎えております。このアドベントの始まりは、今朝の聖書の「ヨセフへの告知」の箇所からであります。マリヤはヨセフとの婚約中に、聖霊によって男の子を宿 しました。ヨセフには痛みを伴う思いがけない出来事でした。マリアが身ごもっていることを知ったヨセフの態度は、通常ならば、 @彼女を姦淫の罪で訴えて、石打の死刑にする。A表沙汰にしないで、ひそかに離縁する。 しかし、離縁したとしても、婚約者を妊娠させたにもかかわらず離縁したということで、ヨセフが世間の非難をあびることになるのです。
ヨセフはマリアが「姦淫の女」という烙印を押されて、あるいは石打の刑で殺されることよりも、自分が非難を受ける道を選んだのです。このような危機的状況で不安と孤独が支配しているヨセフに夢の中で神様は声をかけられたのです。そしてヨセフは、その夢の中の御使いの言葉通り、マリヤの胎の中の子が聖霊によるものであることを信じ、彼女を妻として迎え入れました。
本 論: (1)インマヌエルとはどういう意味か? このことばはヘブル語です。インマヌエルは二つの言葉、インマヌ(われらと共に)とエル(神)を組み合わせた名前です。元々はイザヤ書7:14からきています。(イザヤ8:8,10にも)「インマヌエル」(神が共におられる)は聖書が一貫して強調していること。(創世記26:24、28:15 出エジプト3:12、ヨシュア1:5、イザヤ41:1043:5、マタイ28:20を参照)
(2)インマヌエルの神はどこに共におられるのか? 神は継続的に私たちと共におられるのです。喜びの時も悲しみの時も、順境の時も逆境の時も「常に」共におられる。「共に」(メタ)は、側近くにいるのではなく、まさに「共に」です。 ですから、インマヌエルの神と私たちの間には「距離がない」わけです。特に、私たちが「孤独」を感じるときに、神は共におられる。
(3)神が共におられるのをどのようにして確信することができるか? 「神が共におられる」ということを具体的に感じて生きるのは、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、神の子とされたという確信の中に。 @日曜ごとの礼拝生活の中で(特に、説教と聖餐において) A日々のデボーションの中で(祈りの祭壇を築くこと、そこに留まること。) B讃美の中に共におられる。 C私たちが孤独と不安の暗闇が支配する中で。
(4)神が共におられるとどうなるのか? @恐れや不安から自由になれる(解放される) A「安心」「平安」が与えられる。(イザヤ41:10、41:13 43:5) B勇気が与えられる(強く雄々しくされる) (ヨシュア1:5) C将来と希望が与えられる(エレミヤ29:11)
まとめ: あなたは決して一人ではない!“神が共におられる”これこそ聖書のメッセージです。このメッセージをしっかり聴き取りながら、インマヌエルに支えられた信仰生活、家庭生活を築き たいものです。祝福をお祈り致します。
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