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2007/02/25(日) 「主は私の羊飼い」西脇衛士勧士
フレンズ・サンデー信徒礼拝(聖書)詩編23:1〜6

序 論:
 聖書にはその人でなければ語り得ないメッセージがあります。アブラハム、モーセ、パウロ然りです。今朝、この詩編の作者であるダビデ(愛される者の意)に目を転じたいと思います。
 エッサイの8番目の子として生まれ、少年時代を羊飼いとして過ごした。後にイスラルの王となるはずのダビデに神は多くの試練を与えられ、波乱の人生を歩む人となる。初代イスラエルの王サウルは高慢と不従順により神に退けられ、祭司サムエルは名もないダビデに油を注ぎ王に任命した。ダビデは悪霊に悩まされたサウルを慰め、敵国ペリシテの巨人ゴリアテを倒し、サウル王に勝る手柄を立ててサウル王の妬みをかい、命を狙われ荒野における苦難の逃亡生活者となる。

 緑の牧場に伏すこともなく、死の陰の谷を歩む生活である。又敵陣に入り命乞いをするダビデは私達のイメージする勇敢で高潔なダビデとは違うダビデがそこにあった。又サウル王が死んだ後、王となりイスラエルを隆盛に導いたダビデの心に油断が生じた。バト・シェバと姦淫をなし、その夫ウリヤを殺す大罪を犯してしまい「心は苦しみのため私の骨まで朽ち果てました」と告白しています。(詩編32:51)そして深い悔い改めにより神の赦しを得ます。サムエル記には生々しい人間ダビデが書かれています。
 本 論:
 しかし、そのような中にあってダビデは人生を振り返って「主は私の羊飼い。私には乏しいことはなかった。死の陰の谷を通る時も、主は共にいて神の真実と愛に守られた。」と告白しています。詩篇23編はまさにダビデでなければ書けない信仰告白であり、メッセージではないでしょうか。
 
 ダビデは死を間近にして我が子ソロモンにこう伝えます。「神の教えを守り、心を尽くし、魂を尽くして私(主)の道を歩め・・」(列王記上2:1〜4)と。また、栄華を極めたその子ソロモンも又、人生の結論を「神を畏れ、その戒めを守れ、これこそ人間の全て」(コヘレト12:13)と言っています。羊飼いの経験を持つダビデこそ羊飼いなる神の愛を最も良く知っていたのではないでしょうか。そして神に愛され、油注がれた(選ばれた)者の生涯がここにあるのです。

「私はよい羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と主イエス様はご自分を羊飼いに譬えられ、その如く、羊である私達に愛と真実を示してくださり、十字架にかかり、私達の救い主となってくださいました。
ダビデがどのような状況の中にも「主は私の羊飼い」と告白し、神の愛と真実によりすがったように、私達もダビデと同じく神に「愛されている者」ですから、「主は私の羊飼い」と告白し、羊飼いであるイエス様の声に従がっていきたい者です。主は愛する者と共におられますから。

●この詩篇23編は「主」と「私」の関係で書かれています。この詩の「わたし」の所に自分の名前を入れて読む時、恵みもいや増すでしょう。

2007/02/18(日) 「キリストにある新しい生き方」大嶋博道牧師
「キリストにある新しい生き方」(聖書)コリントの信徒への手紙5:17

キリスト者(クリスチャン)にとって「キリストにある」「キリストのうちにあって」あるいは「キリストと結びついて」(エン・クリストー)という言葉は、実に重要で根本的な意味を持っています。
キリスト者の生きる根拠をなすものであり、その生き方を根本的に新しく変革し、生きる意味を与え、また価値観を一新するものということができます。

今朝は二つのことに触れておきたいと思います。
一つは、聖書がいう「古い人とか新しい人」とはどういう意味なのか明らかにしておきたい。もう一つは、では「キリストにある」とは何なのか?を確認しておきたい。

@「古い人・新しい人」とはどういう意味なのか?
聖書がいう「古い人」というのは「いのちの創造者である神との交わりから離れて、自分の力によって、自己中心的に生きる人間」のことだと言えましょう。(実はこれを聖書的な意味での“罪”というわけです。)パウロはこのような人を「肉に従って生きる人」と言ってます。(ローマ8:5〜8)
 一方、「新しい人」とは、キリストにあって(キリストと結びついて、キリストを拠り所として)生きる人のこと、言い換えればイエス・キリストの十字架と復活を信じる信仰に基づいて生きる人のことであります。(ローマ8:9〜11,コリントU:5:17)
ある聖書学者が、「キリストにある」ということが新しい生への可能根拠なのだ、と言ってます。当を得た言葉です。

新しさを意味するギリシャ語には二つあります。
(1)その一つが「ネオス」です。
これは現象的な新しさ、表面的な新しさを意味します。例えば新聞のニュースは日々新しい事件や出来事を報道しますが、1日経過すると古いものとなります。私たちの家、家財道具、持ち物そして私たち自身も時の経過と共に古くなり、衰えて行き、やがては消えてしまいます。

(2)もう一つの「カイオス」というのは、本質的な新しさ、内面的な新しさを意味するものです。それは決して時間的経過と共に古びるものではないのです。日々、新しさを増し加えられ、成長して行く性質のものであると言えましょう。
 例えば、信仰によって与えられた永遠のいのちは何年たっても古くなりません。喜びや感謝、平安や希望は時間的な経過と共に古くなって行くものではない。 パウトロの言う「見えないも
のは永遠に存続する」(コリント二4:18)の言葉のとおりですね。

Aでは「キリストにある」とは結局何なのか? 
「キリストにある」(エン・クリストー in Christ)」というのは、パウロが好んでよく用いている言葉ですが、これは人格的、神秘的な結合の関係、つまり、キリストと私たちとの一体的な、愛の交わりの結合関係を表現する言葉です。
「キリストを根拠にして」「キリストに支えられて」「キリストに引き受けられて」存在している信仰者の現実の姿を表しているわけです。
 
キリストにあって生きるということには、二つの面があります。
(1)私がキリストの中に存在せしめられており、キリストに愛され、捉えられているということ。
(2)私を捉えていて下さるキリストに対して、私が信頼し、服従するということであります。
 私を愛し、支え、守り、救いの中においていて下さるお方への、私の応答です。

 このように、キリストにある日々の生活によって、キリストとの交わりが保たれ、深まり、さらに強くされ、良き実を結ぶに至るのであります。(ヨハネ15:5)

まとめ:
私たちが新しくされるのは、自分の力ではなく、神の恵みによるものです。従って、信仰に基づくものであります。お互いに、キリストにあって、キリストに結びついて、日々、新しくされ続け、生きている充実感を味わい、豊かな実を結び続けたいと願います。

2007/02/11(日) 「あなたのアベルはどこに」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)創世記3:1〜9、 創世記4:1〜12

聖書は私たちに二つの本質的な問いを投げかけています。「本質的な」というのは、私たちが生きていく上で最も大事な、最も必要な問いということです。
(1)その一つは創世記3:9の「どこにいるのか」(新改訳)(口語訳) 「あなたは、どこにいるのか。」"Where are you?"
これはアダムがへび(サタン)の誘惑に負けて、神が決して食べてはならないと言われた「善悪の知識の木」を食べて、神の顔を避けて園の木の間に隠れた時に問われたもの。

その意味は、
@あなたは何をしましたか?(人間とは何か?、あなたは何者か?との問いかけ)
Aあなたは今、何を感じていますか?(罪を犯して神の顔を避けた人間の心の有り様)
Bあなたは私、神との関係をどうするのか?(人生を支える確かな存在との関わり)
Cあなたはこれからどうするつもりか?(未来に向かってどう歩むかの問いかけ)

これは、創世記1:26,6さらに2:7にあるように、神にかたどって造られ、その鼻に命の息(霊)を吹き込まれて生きた人になった人間が、神と向き合った時に初めて聞こえてくる問い
であり、神との関係において初めて答えられる問いであります。

(2) もう一つは今朝のテキストに出てくる創世記4:9の「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(新改訳)(口語訳) 「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」"Where is Abel your brother?"
実は今朝、皆さんにお伝えしたいのは、後者の「 「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」です。これは、神と向き合って自分とは誰なのかを確認したあと、今度は、誰とどう生きるのかという「横の関係」すなわち「他者に目を向けさせる」問いであります。
結論から申し上げますと、
@自分と関わる相手はもう一人の自分
 私にとって家族であれ、友人であれ、隣人であれ、共に生きる他者はもう一人の自分です。つまり、向き合った相手の中に自分の存在を見るわけです。
A生きるということは、関わりのある他者に応答する(response)ことである。

 人間は常に、応答する存在であります。他者に応答することによって、すなわち、関わることによって初めて私は私なのです。その存在が生きてくるのです。
 カインは弟を殺したあと、神に「アベルはどこにいるのか?」と問われたとき、「私はアベルの番人でしょうか」とうそぶきました。
 私たちもカインのような思いで隣人を見ていないでしょうか。反省させられます。

まとめ:
 善いサマリア人の譬えにあるように、「関係」をつくることは何よりも@まず他者の存在に気づくこと A他者を見ることB他者に近づくこと Cそして言葉と行いをもって具体的に関わ
ることです。たとえ自分と価値観が違っていても、その違いを認め、受け入れ、尊重する時に、人間関係は積み上げられていくのです。
聖書の神様はイエス・キリストにおいて私たちと関わってくださいました。ここに愛があるのです。この愛を基盤にして「人間関係」をつくって行きたいものです。

2007/02/04(日) 「世にあって星のように輝いている」大嶋博道牧師
総員礼拝(聖書)フィリピ2:12〜16

序 論:
フィリピ2:15〜16を聖書学者のシュラッターはこのように訳しています。
「あなたがたはいのちのことばを固く保っているので、この時代にあって、星のようにこの世界に輝いている。」
 今朝の聖書のみ言葉はキリスト者として生きるお互いの「最終目標」であり「最大の課題」であります。信仰生活の目的とは「神のみ業を行うこと」、キリスト者として生きる意味は、ただ神のみ業を行うこと、この一点に集約されます。それを、パウロは「あなたがたは、いのちの言葉(聖書)を固く守って、この世で星のように輝いています。」と述べているのです。星のように輝くこと―これこそが「神のみ業を行う」ことであり、私たちの
生きる目的だというのです。

本 論:
(1)この時代、あるいはこの世とはどんなところなのか?
 この時代、この世とは今、私たちが現実に生きて、活動している世界のことあります。
スイスの精神科医のポ−ル・トウルニエは「我々の現代社会は数知れぬ病いにかかり、発作を起こしている」と数十年前に述べておられます。世界を眺めても、私たちのごく近くを見ても、この世は「闇の世」、一つ歯車が狂えば、はい上がることのできない暗闇の谷底と言っても過言ではないと思います。ヨハネ16:33でイエス・キリストは「あなたがたはこの世では苦難がある。」と言われました。聖書ははっきりと 「この世は闇が
支配している」と述べています。(ヨハネ1:5)

(2)「いのちの言葉を固く保つ」ということについて
 「いのちの言葉」とは神の言葉である「聖書」のことであります。なぜ、聖書がいのちの言葉なのかと言えば、私たちの人生を導き、教え、支え、励まし、勇気や希望を与え、何よりも永遠の滅びから救いに導くものだからです。「いのちの言葉を固く保つ」とは、
@信仰によってイエス・キリストと結びついて生きることA神の言葉にしっかりとどまり、それが生きていく上でしっかり根を張る、生活の中で影響を与えるようになるということです。

(3)星のように輝く輝く
 パウロは「あなたがたは星のように輝いています」と現在形で語っています。キリスト者とは「星のようにこの世で輝いている存在」なのです。では、どうすれば輝くのでしょう?
@神が私たちのうちに働かれるならば「神の支配に明け渡す」(委ねる)。
A何事も不平や理屈を言わないで、日々喜んで生活する。
Bへりくだって互いに相手を自分より優れた者と認め、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を(関心)を向ける。
C思い煩うのをやめる。感謝を込めて祈りと願いをささげる生活をする。

まとめ:
パウロはテモテに、「戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」(テモテ二 4:6〜7)と書き送っています。キリスト者がこの世にあって星のように輝いて生きるために、このような生き方をしたいものです。


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