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2007/02/11(日)
「あなたのアベルはどこに」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 (聖書)創世記3:1〜9、 創世記4:1〜12 聖書は私たちに二つの本質的な問いを投げかけています。「本質的な」というのは、私たちが生きていく上で最も大事な、最も必要な問いということです。 (1)その一つは創世記3:9の「どこにいるのか」(新改訳)(口語訳) 「あなたは、どこにいるのか。」"Where are you?" これはアダムがへび(サタン)の誘惑に負けて、神が決して食べてはならないと言われた「善悪の知識の木」を食べて、神の顔を避けて園の木の間に隠れた時に問われたもの。
その意味は、 @あなたは何をしましたか?(人間とは何か?、あなたは何者か?との問いかけ) Aあなたは今、何を感じていますか?(罪を犯して神の顔を避けた人間の心の有り様) Bあなたは私、神との関係をどうするのか?(人生を支える確かな存在との関わり) Cあなたはこれからどうするつもりか?(未来に向かってどう歩むかの問いかけ) これは、創世記1:26,6さらに2:7にあるように、神にかたどって造られ、その鼻に命の息(霊)を吹き込まれて生きた人になった人間が、神と向き合った時に初めて聞こえてくる問い であり、神との関係において初めて答えられる問いであります。 (2) もう一つは今朝のテキストに出てくる創世記4:9の「お前の弟アベルは、どこにいるのか」(新改訳)(口語訳) 「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」"Where is Abel your brother?" 実は今朝、皆さんにお伝えしたいのは、後者の「 「あなたの弟アベルは、どこにいるのか。」です。これは、神と向き合って自分とは誰なのかを確認したあと、今度は、誰とどう生きるのかという「横の関係」すなわち「他者に目を向けさせる」問いであります。 結論から申し上げますと、 @自分と関わる相手はもう一人の自分 私にとって家族であれ、友人であれ、隣人であれ、共に生きる他者はもう一人の自分です。つまり、向き合った相手の中に自分の存在を見るわけです。 A生きるということは、関わりのある他者に応答する(response)ことである。
人間は常に、応答する存在であります。他者に応答することによって、すなわち、関わることによって初めて私は私なのです。その存在が生きてくるのです。 カインは弟を殺したあと、神に「アベルはどこにいるのか?」と問われたとき、「私はアベルの番人でしょうか」とうそぶきました。 私たちもカインのような思いで隣人を見ていないでしょうか。反省させられます。 まとめ: 善いサマリア人の譬えにあるように、「関係」をつくることは何よりも@まず他者の存在に気づくこと A他者を見ることB他者に近づくこと Cそして言葉と行いをもって具体的に関わ ることです。たとえ自分と価値観が違っていても、その違いを認め、受け入れ、尊重する時に、人間関係は積み上げられていくのです。 聖書の神様はイエス・キリストにおいて私たちと関わってくださいました。ここに愛があるのです。この愛を基盤にして「人間関係」をつくって行きたいものです。
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