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2007/03/25(日)
「最後の者から始めて」〜神の国(天国)とは?大嶋博道牧師
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フレンズ・サンデー礼拝(聖書)マタイ20:1〜16 序 論: ぶどう園の主人はぶどうの収穫(9月頃)にあたり、労働者を集めに市場に出かけます。一日1デナリで早朝6時から、9時から、さらに12時と3時からの労働者を雇い、最後に夕方5時からの労働者をも雇ってぶどう園に送ります。賃金が支払われる時に、夕方5時から雇われた人が最初に賃金を受け取り、早朝6時に雇われた人が最後になります。すべての労働者が平等に1デナリを手にします。 当然の用に、早朝雇われた人は不平をこぼします。しかし、主人はすべての人を平等に扱いたいと伝えます。 常識的にはあり得ないことです。私たちの価値観では、まさに非常識で不合理なこと、あり得ないこと、あってはならないことでしょう。しかし、これが「神の国(天国)」だと言うのです。そして、聖書は「愛の世界」ではこのことが成り立つと強調するのです。1+1が2にならない世界、科学的、数学的合理性が成立しない世界―それが「愛の世界」なのです。 本 論: @神が与える救いはすべての人に平等(分け隔てがない)。ぶどう園の主人は神であり、ぶどう園は天国、労働者は人間、1デナリの賃金は救いである。なぜ皆が同じ1デナリか。それは神の与える救いは誰彼を分け隔てることなく、等しく与えられるからだ。その救いは主イエスの十字架の死によって完成され、私たちの罪が完全に赦される唯一の道である。 A神は気前が良い(豊かに施される)ぶどう園の主人は一日に5回も雇いに行く。それが神の姿を現している。神の恵みの中に生きるようにと招いている、行く当てのない人を捜し求めて自分の所へ招く、それが神の姿なのだ。神は、受けるにふさわしくない者に無償で慈しみを与えて下さる。その一番大きな表れが、主イエスの十字架である。ローマ5:8「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった…」、私たち罪人に注がれる神の自己犠牲の愛は、人間の働きによらずして与えられる神の慈しみである。 B救いは行いや業によらない(ただ信仰、ただ恵み)。 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは…神からの賜物です。行いによるのではありません」(エペソ2:8,9)。1日の生活を支える1デナリ(神の救い、永遠の命)は、人間の働きや良い行いに対する報酬ではなく、ただ神の恵みによって与えられるもの。 まとめ: 救いが神の恵みによる賜物であるなら、自分と他の人を比べたり、自分の行いを誇ることはできない。 また信仰歴の差こそあれ、実は私たちはそれぞれ夕方5時に、1日の終わるぎりぎりになってようやく、主人の憐れみによってぶどう園に雇い入れられたものではないか、とも思うのである。
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