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2007/03/04(日)
「神のことばの飢饉」大嶋博道牧師
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総員礼拝 (聖書)アモス書8:9〜14/ヨハネ6:68 序 論: 皆さんは「神のことば」をきちんと聴いておられますか?クリスチャンとは、毎日、神のことばである聖書を開いて読み、味わい、魂の奥深くに宿らせて生きる存在です。もし、忙しいからとか興味がないからという理由で、神のことばを聞かなければ、それは、今朝のメッセージの題のように、「神のことばの飢饉」そのものであります。
ご存じのように、飢饉(ききん)とは、主食とする農作物の大規模な不作(実らないこと)が原因で、食物が欠乏して人々が飢え苦しむことを指しています。 今、世界では、1分間に約17人(うち子ども12人)、1日に2万5000人、1年間に1000万人が飢えで死んでいってます。食物がない―これこそまさに飢饉です。 貧困はたしかに人間のいのちを脅かしています。しかし、もっと恐ろしく不幸な貧困は「神のことば」を聞こうとしない人間の魂であります。現代はモノが繁栄し、一見、豊かそうに見えますが、心は荒廃し、貧困そのものです。 国の政治の乱れ、教育現場の混乱、社会の腐敗、そして家庭の崩壊などに顕著に見られます。 今朝のテキストのアモス書は南王国ユダのテコアと言う地で牧畜を営んでいた青年アモスという人が語った言葉をまとめた書物で、12預言書の一つです。 彼は紀元前750年頃、ヤラベアム2世という王の統治下の時代に登場しております。内容を一言で述べるならば、神に信頼しないで、目に見える物質やモノに頼って安住しているイスラエルの民に下される審判は、アモス書8:11〜12「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく水に渇くことでもなく主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ。」 という恐るべき預言です。
本 論: さて、神のことばの飢饉は絶望です、滅びです。このような飢饉を起こさせないために、私たちは、信仰生活のすべてにおいて「神のことば」に全力を注いで傾聴したいものです。 そのためには幾つかのことをお伝えします。
(1)日々、神のことばである聖書を食べること (エゼキエル3:1〜3) 聖書を手の届くところに置いておく、聖書を開いておく、聖書を読む、聖書のことばをゆっくりかみ砕いて味わう、聖書のことばを魂の奥深くに常宿させる。
(2)生涯をとおして真の礼拝者であること (ローマ12:1〜2) はっきり申し上げます。神様を礼拝するために、一週間に一度わずか2時間を献げることができないのは信仰生活のありかたを見直さなければなりません。イスラエルの民はモーセの戒めに従って「安息日」を聖別しました。柏木哲夫先生がお書きになっておられましたが、「日曜日は、自分の仕事を中断して礼拝をささげ、心身共に、新しい週をはじめるのに備える日」である。
(3)神のことばを「節目」に聴き続けること (コヘレト3:11/ローマ8:28) 節目とは誕生、入学、卒業、就職、結婚、子どもの誕生、定年退職、引退、時には大きな病気や失敗などをさします。このような人生を根底から揺るがす出来事を支えるのは「神のことば」なのです。 まとめ: ヨハネ6:68を共に読んでまとめましょう。 弟子のペトロはイエス・キリストに向かって「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と告白しました。イエス・キリストは天からのいのちのパンなのです。 このお方を日々いただきながら(信仰をもって聖書を読み、味わいながら生活する)心身共に恵まれて歩みたいものです。
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