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2007/04/29(日) 「キリストが形づくられる」大嶋博道牧師
特別礼拝 (聖書)ガラテヤ4:19〜20

●今朝のメッセージの結論は、「私たちのうちに、キリストが形づくられる」ことであります。宗教改革者のマルチン・ルターはかつて、「キリスト者であるということは、皆ひとりびとりが“小さいキリスト”になることです」と言いました。
“小さいキリスト”ということは、私が家族や隣人一人びとりに対してキリストの恵みを担う器(証する器)であるということなのです。

 序 論:
 ガラテヤの信徒たちへの手紙の語調は非常に感情的で、至る所にパウロの怒りの感情が表れています。(1:6〜7,3:1〜を参照)いったい、これほどまでにパウロを激しく怒らせた原因は、ガラテヤの信徒たちが、偽教師たちの教えに惑わされて、パウロが伝えた真の福音から離れてしまい、信徒たちのうちに形づくられたキリストが崩れてしまったからです。

 パウロはこの箇所で、ガラテヤの信徒と自分の関係を、「妊娠と出産」の隠喩で述べています。妊婦は自分の胎内に宿った新しいいのちを大切に育み、やがて時が満ちて苦しみの中で出産を迎えます。その苦しみに耐えて新しいいのちが誕生したとき、その苦しみは大きな喜びに変わります。
 
ちょうど、パウロは多くの困難や犠牲の中から、教会を産み出し、宣教の働きによって信徒たちにキリストの形を刻み込みました。
 ところが、パウロがその土地を去った後、偽教師たちが入り込み、ガラテヤの信徒たちに律法による義、すなわち割礼を受けることや迷信めいた教えを信じて行うように勧めたのです。

本 論:
「形づくる」と訳されたギリシャ語「モルフォオー」は印刷するとか刻印するという意味でもあります。キリストが私のうちに印刷される、刻印される―それが形づくられるということなのです。具体的には、
@イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活により罪の赦しと永遠のいのち の確信が信仰によって与えられていること。
Aそのことにより、魂に平安が与えられ、日々、喜びと感謝と希望に溢れた生活が形づくられていること。
Bさらに心から奉仕や証の生活、愛の生活が形づくられていること。
先ほどの久木原兄と上井香姉の証の中で語られたように、キリストに似た者として、さらにイキイキした信仰生活を実践することです。

 まとめ:
 ある人形師が、いい人形をつくるには「自分で自分をつくる気構え」がないといけない言ってます。人形のかたちを彫りながら、実は自分自身を写していると言われるのです。内にあふれるものが形を造り、その形が人に語るのです。ですから、お互いに信仰生活の中でキリストを形づくることを目指しましょう。もし、キリストの形が造れなくなったり、崩れかけたりしても決して諦めないでください。

ローマ書8章26節にあるように、聖霊は今も尚、私たちを執り成していて下さい
ます。私たちが被る様々な「苦しみ」を聖霊ご自身が「助産師」として、私たちと共に苦しんで下さるからです。

2007/04/22(日) 「渇いている人は来て飲みなさい」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ヨハネ7:37〜39

 イエス・キリストの最も美しい招きが二つあります。マタイ11:28〜30の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」と今朝のテキストの「渇いている人はわたしのところに来て飲みなさい」であります。

 今日の言葉のポイントは「祭り」「渇き」「潤い」「水を飲むとどうなるか」等ですのでこの事について学びます。
@ユダヤの三大祭りの一つに「仮庵の祭り」(秋の収穫祭)があり、昔、荒野の40年間を神が導かれたことを思い起こすため、木の葉や枝で屋根を覆われた小屋を造ってそこに8日間住み、さらに祭司はシロアムから井戸水を汲んで神殿の祭壇に浸しました。出エジプトの苦しかった時の事を思い起こすこの祭りの時に、イエスが語られた事に特別な意味があります。

A「渇く」とはどういう事でしょうか。私たちは愛に、優しさに、人間関係に、人生に渇きを感じる時があります。渇くとは欠けを感じたり弱さや疲れ覚えることです。心の空洞でもあります。思い通りにならない人生の中で私たちはしばしば「渇く」のです。それはモノやお金やどのような人間的手段によっても癒すことの出来ない渇きです。

Bこの渇きに対してイエスは「渇いている人は来て飲みなさい」と言われました。イエスは渇きを補ってくださいます。癒してくださいます。具体的には
(1)イエスに出会う事によって満たされるのです。このイエスに出会って、
(2)信じて歩み出す時に渇きは癒されるのです。そして
(3)「霊」と「真」をもって礼拝を献げる事によってその渇きを潤すことが出来るのです。(キリスト者は礼拝者です.)何よりも「礼拝者」として歩み始めることが第一のことです。

ではCこの水を「飲む」事によってどうなるのでしょうか。
イザヤ書58章11節には「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」とあります。
いのちの水であるお方を信じる(飲む)ことによって、私たちのうちから生きた水が川となって流れ出るようになるのです。喜びと感謝と平安と希望の人生を歩むことが出来るのです。さあ「渇いている人は来てのみなさい」と言うイエスの招きに応答しようではありませんか!

まとめ:
私の牧会カウンセリングの恩師である谷口泰造先生は先日77歳で天に召されました。
2005年12月に書かれた証を紹介してまとめとします。
「第二次世界大戦が終わり、生きる希望を模索していた時、私は宣教師に出会った。
彼は、私をキリストに紹介し、私は聖書を読んでキリスト者になった。主は、私に召命と家族と多くの友を与えて、人間成長と奉仕の機会を下さった。
70年を超える生涯は、実に多くの人々の愛と赦しに包まれた生活であり、すべては神の恩寵であった。」
 先生の生涯はまさに「いのちの水」を飲み続けたことを証するものでした。(祈平安)

2007/04/15(日) 「わが主、わが神」 大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ヨハネ20:19〜29

序 論:
◇弟子たちの群れに現れた復活のイエス
 主イエスが復活された同じ日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にカギをかけて一緒に集まっていました。愛する師を失って、失望と悲しみの中にいる時に復活されたイエス様が現れたのです。彼らがどれだけ喜びに満たされたかは想像に余りあります。

◇ヨハネ20:24〜29
 ところが、気の毒なことに、トマスはそこに居合わせなかったのです。彼は非常に熱血漢で徹底的に真理を追い求めタイプの弟子だったようです。また、現実主義者であったと言ってもいいでしょう。(ヨハネ11:16,14:5参照)
 だから、イエス様が現れたというのなら、イエスの傷跡に手を当てて実際に触ってみて、確認してから信じよう、と言ったのです。

◇復活のイエスはトマスにも現れた
 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた時に、復活されたイエスが現れたのです。イエスはトマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と言われた。その時トマスは「わたしの主、わたしの神よ」 と告白しました。

本 論:
 「私の主。私の神。」(28節)トマスでなければできない告白です。主イエスに直接「神」と言ったのは、聖書の中で唯一、トマスだけです。私たちキリスト者信仰告白も、最終的にはトマスの告白そのものです。その内容は、
 (1)わが人生のすべての道(生きるすべて)
 (2)わが人生の真理(このお方の外に救いはない)
 (3)わが人生のいのち(生きる目的・生きる喜び・生きる希望)
 教会は「告白共同体」です。十字架に架かって贖いの死を遂げて下さり、三日目に死人の中から甦られたお方を「わが主、わが神」と真実に告白する共同体です。
そして、キリスト者の生涯はまさにイエスを「わたしの主、わたしの神」と告白しながら生きるものです。

まとめ:
 今朝のメッセージをまとめた聖句があります。
「あなた方は、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」 (1ペトロ 1:8)
 私たちは直接、主イエスを見たり、触れたり、その声を聴くことができませんが、心から信じ、愛し、喜びに満ちあふれています。ずっとこのような信仰生活を送りたいものです。
「キリスト教の2000年の歴史のなかで告白された信仰告白は、このトマスの短い驚きの叫びに源がある。」(竹森満佐一)

2007/04/08(日) 「復活〜新しいいのちへの出発」大嶋博道牧師
イースター記念礼拝(聖書)ヨハネ20:22〜18

 本日はイースター(復活祭)です。心よりお祝い申し上げ、皆さんの上に神の豊かな祝福をお祈り致します。

序論:
 キリスト教は復活〜よみがえりの宗教です。再生、回復の宗教とも言えます。復活の主イエスを信じた時に「悲しみ」は「喜び」に、「不安」は「平安」に、「不満」は「感謝」に、「絶望」は「希望」にすなわち「闇の部分」は「光」に回復されると言う事、死から生へ大転換をすることを可能にさせるすばらしい宗教です。

 マルコ16章6節にあるようにイエスは確かに復活なさったのです。「イエスはここにはおられない。甦られたのだ」という聖書の記述こそ、キリスト教の福音の中心です。
 パウロが述べているように、イエスが復活なさらなかったら私たちの宣教も信仰も虚しい(無駄)のです。イエスが復活なさったと言う事はこの2000年の間、全世界の人々がこの事を信じ、生きる活力を得てきたと言う事が証明しています。
ルカ24章32節で「わたしたちの心は燃えたではないか」と復活の主に出会った弟子たちは言っています。復活の主イエスを信じる者はだれでも心の奥底から燃えるような経験をし、生きる真のエネルギーが与えられるのです。

本論:
 かつて日本基督教団の鈴木正久先生が「イースターとは私たちの弱さを清算する日です。」と言われました。
そのとおり、まさに新しいいのちの出発の日なのです。
ではイエス・キリストの復活に触れた者は何が変わるのでしょうか。
 
@人生の土台、生きる立場が新しくされます。人生の途中で消え去るもの、変わっていくもの(仕事とかお金とか…)ではなくて、永遠に崩れないキリストによって立つ事が出来るようになるのがその第1の事です。ロマ8章28節には「最善に導いてくださる」とあります。「万事が益となるように」働くのです。これこそ聖書の約束です。

A生活の原理の転換が図られる〜「自己中心から他者中心」の生活へと人生が変わると言うのがその第2の事です。私たちは自分のために生きています。しかし、復活の主との出会いは、私たちの生が他者に向かう生へと変えられるのです。

B第3の事は、生きる目的が変化する、と言う事です。「生きるはキリストのため、死ぬことは益である」とパウロは言っています。自分自身のために生きるのではなくて、死んで、復活してくださった方のために生きるのです。
まとめ:
 マグダラのマリアはイエスが埋葬されたお墓に深い悲しみの中で立っていました。
復活の主はマリアに声をかけられたとき、彼女ははじめてそれが主イエスだと分かり「ラボニ(先生)」と応答しました。その時から彼女は新しいいのちへの出発を始めることが出来たのです。
イースターを機会に人生の生き方を変えて、新しいいのちへの出発をして見ませんか。               

2007/04/01(日) 「受難」〜極みまでも愛されて 大嶋博道牧師
受難週礼拝 (聖書)ヨハネ13:1〜11 

はじめに:
今日から受難週がはじまります。イエス・キリストがユダの裏切りによって捕らえられ、十字架に架かって死なれた「受難」の一週間の始まりです。主の苦しみを思い起こしながら、祈りのうちに今週をすごしましょう。
序論:
今日のみ言葉の中心は1節です。主イエスはこの上なく〜極みまで私たちを愛してくださいました。まさに時間的に(量的に)、質的に私たちを愛して下さったのです。
さて、主イエスを裏切った「ユダ」とはどんな人物だったのでしょうか。ユダは12弟子の1人として選ばれました。そして会計を担当していましたが、結果的にイエスを敵に引き渡す働きをしてしまいました。そしてその結末は自らの命を断つという惨めなものでした。ユダに関して幾つかの疑問がわいてきます。

@「イエスは何故このユダを弟子にしたのか?」
A「ユダは神の聖なる救いのご計画に必要だったのか?」
B「ユダは救われたのか?」
C「ユダは本当に生まれなかった方が良かったのか?」
今朝はこれらの疑問に答える十分な時間はありませんが、私の理解では

@に関しては「神の選びと人間の自由意志」の問題です。ユダは神の操り人形では無くて自分の自由意志で動いたのです。
Aに関しては、ユダの働きが無かったとしても神様の聖なる救いのご計画は完成されたのではないかと思います。
Bに関して、イエスを知らないといったあのペテロは後で悔い改めましたが、ユダは後悔はしても悔い改めはしませんでした。ユダが救われたか滅びたかは人間が決める事ではないのです。神の領域です。
Cに関して、どんな人の命も生まれたからには貴いものです。生まれなかった方がよかったということはありません。ただ、ユダに関しては、神の子イエスを裏切る結果になったのですから、果たして・・・・マルコ14:21の主イエスの言葉はユダに対してだけ当てはまるのではないでしょうか。

ただ言える事はユダは
@ユダは神様のみ心を行う人では無くてユダ自身の思いを実行した人でした。
Aユダはイエスを裏切っただけでなく、その仲間を裏切ったことも事実であります。

本 論:
主イエスは極みまでも人々を愛されました。21世紀に生きる皆さんやこの私をも愛していてくださいます。主イエスの極みまでの愛を実証しましょう。
@選びにおける極みまでの愛(ルカ6章12〜13節)。イエスは祈って、夜を徹して祈って12人の弟子を選ばれました。あのユダの選びのためにも夜を徹して祈られたのです。
私たちは家族のため、友人のため、周囲の人々のためにこれほどの祈りをしているでしょうか。

A最後の晩餐にまで招かれるほどの極みまでの愛
イエスは過越しの祭り大事な時に、しかも、ご自分がこの世を去るという大事な時に、12弟子を集めて最後の晩餐をされました。あのユダをも招かれ、パンを差し出して晩餐をされたのです。この姿の中に極みまでの愛を見ることができます。

B裏切ったユダを「友」と呼ばれるほどに極みまでの愛
イエスはご自分を捕らえにきた裏切り者に「友よ」(マタイ26章50節)と呼んでくださっています。この「友」とは戦友、仲間とおなじいみで、ごく親しい間柄を指しています。
主イエスは今も私たち一人一人を「友よ」(ヨハネ15章15節)とまで呼んで下さいます。

主イエスは「極みまで愛してくださる」ーそのことを心に留めながら、受難週の一週間を感謝と喜びと希望をもって歩みたいと願います。


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