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2007/04/01(日)
「受難」〜極みまでも愛されて 大嶋博道牧師
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受難週礼拝 (聖書)ヨハネ13:1〜11 はじめに: 今日から受難週がはじまります。イエス・キリストがユダの裏切りによって捕らえられ、十字架に架かって死なれた「受難」の一週間の始まりです。主の苦しみを思い起こしながら、祈りのうちに今週をすごしましょう。 序論: 今日のみ言葉の中心は1節です。主イエスはこの上なく〜極みまで私たちを愛してくださいました。まさに時間的に(量的に)、質的に私たちを愛して下さったのです。 さて、主イエスを裏切った「ユダ」とはどんな人物だったのでしょうか。ユダは12弟子の1人として選ばれました。そして会計を担当していましたが、結果的にイエスを敵に引き渡す働きをしてしまいました。そしてその結末は自らの命を断つという惨めなものでした。ユダに関して幾つかの疑問がわいてきます。 @「イエスは何故このユダを弟子にしたのか?」 A「ユダは神の聖なる救いのご計画に必要だったのか?」 B「ユダは救われたのか?」 C「ユダは本当に生まれなかった方が良かったのか?」 今朝はこれらの疑問に答える十分な時間はありませんが、私の理解では
@に関しては「神の選びと人間の自由意志」の問題です。ユダは神の操り人形では無くて自分の自由意志で動いたのです。 Aに関しては、ユダの働きが無かったとしても神様の聖なる救いのご計画は完成されたのではないかと思います。 Bに関して、イエスを知らないといったあのペテロは後で悔い改めましたが、ユダは後悔はしても悔い改めはしませんでした。ユダが救われたか滅びたかは人間が決める事ではないのです。神の領域です。 Cに関して、どんな人の命も生まれたからには貴いものです。生まれなかった方がよかったということはありません。ただ、ユダに関しては、神の子イエスを裏切る結果になったのですから、果たして・・・・マルコ14:21の主イエスの言葉はユダに対してだけ当てはまるのではないでしょうか。 ただ言える事はユダは @ユダは神様のみ心を行う人では無くてユダ自身の思いを実行した人でした。 Aユダはイエスを裏切っただけでなく、その仲間を裏切ったことも事実であります。
本 論: 主イエスは極みまでも人々を愛されました。21世紀に生きる皆さんやこの私をも愛していてくださいます。主イエスの極みまでの愛を実証しましょう。 @選びにおける極みまでの愛(ルカ6章12〜13節)。イエスは祈って、夜を徹して祈って12人の弟子を選ばれました。あのユダの選びのためにも夜を徹して祈られたのです。 私たちは家族のため、友人のため、周囲の人々のためにこれほどの祈りをしているでしょうか。
A最後の晩餐にまで招かれるほどの極みまでの愛 イエスは過越しの祭り大事な時に、しかも、ご自分がこの世を去るという大事な時に、12弟子を集めて最後の晩餐をされました。あのユダをも招かれ、パンを差し出して晩餐をされたのです。この姿の中に極みまでの愛を見ることができます。
B裏切ったユダを「友」と呼ばれるほどに極みまでの愛 イエスはご自分を捕らえにきた裏切り者に「友よ」(マタイ26章50節)と呼んでくださっています。この「友」とは戦友、仲間とおなじいみで、ごく親しい間柄を指しています。 主イエスは今も私たち一人一人を「友よ」(ヨハネ15章15節)とまで呼んで下さいます。
主イエスは「極みまで愛してくださる」ーそのことを心に留めながら、受難週の一週間を感謝と喜びと希望をもって歩みたいと願います。
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