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2007/05/27(日) 「新しい力を得て」大嶋博道牧師
ペンテコステ記念礼拝 (聖書)イザヤ書40:28〜31
  
はじめに:
今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。主を待ち望んでいた2000年前、主の弟子たちや女性たちが約束の御霊(神の霊)に満たされて立ち上がり、教会がスタートした喜びの日であります。

序 論:
 私たちはしばしば迷い、悩み、弱さや欠けを感じます。そのような私たちが「新しい力を得る」秘訣があります。
それを共に学びましょう。

(1)主の弟子たちは聖霊を受けるために何をしていたのか?
@主の弟子たちや女性たちは共に集まり、約束を信じてひたすら待ち望んでいました。(使徒1:5,1:8,2:1)
A彼らは熱心に祈っていました。(1:14)

(2)聖霊を受けた弟子たちはどう変えられたのか?
彼らは聖霊に満たされて(風や炎は聖霊の象徴)、
@弱く、つまずきやすい不安定な信仰が安定し、不動のものに帰られたのです。
A人々が分かる言葉で語り出したのです。甦られたイエスが主であり唯一の救い主であることを大胆に証する者に変えられたのです。
B周囲の人々に好意を持たれる人々に変えられたのです。(2:47)

本 論:
今朝は特にイザヤ書40:28〜31の御言葉から、ペンテコステの出来事との関連において幾つかのことを学びましょう。

(1)私たちを強くして下さる主なる神はどのような方なのか?
@永久にいます神、A全てのものの造り主である神、B倦むことなく、疲れることなくC英知は究みがたいお方です。

(2)では、私たちはどうなのか?
私たちは倦み、疲れ、つまづき、倒れる(弱くて、欠けだらけ)の存在が私たちの姿です。

(3)そのような私たちがどうしたら力強い存在になるのか? 
何よりも主を待ち望む信仰を持つことです。主を待ち望むとは、「主に留まること」を意味します。さらに主を待ち望むとは、主に信頼し、主を正しく畏れ、主の助けと守りを確信し、喜びと信頼をもって祈ることであります。そのような人が「新たな力を得る」ことが出来るのです。
「得る」のヘブル語の原意は「もっと良いものに交換する」ということです。

まとめ:
 待ち望む群れに聖霊が降り、新たな力を得て主の証人、宣教者に変えられたように、私たちも主の聖霊に満たされて、翼を張って天空をかけめぐる鷲のように信仰生活を送りたいと願います。聖霊の気流に乗って、祈りとみ言葉の左右の羽を広げながら。祝福を祈ります。

2007/05/20(日) 「従います、お言葉ですから」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ルカ5:1〜11
 
序 論:
☆ガリラヤ湖畔での不思議な出来事
これは2000年ほど前のガリラヤ湖畔で起こったことです。
一晩中、漁を試みたが魚が全く獲れず、徒労に終わって疲労感と失望感を味わっていたシモンに対して、イエスは「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われました。
通常、漁は夜の暗い間に行われます、朝日が昇ると魚は獲れないのが常識です。シモンは漁師のプロであり、長年の経験から「先生、私たちは夜通し労苦しましたが、何も獲れませんでした。」と答えています。おそらく、「先生、今頃、沖に出て漁をしても無駄ですよ。私の豊富な経験から」と言いたかったのでしょう。ところがシモンはこの言葉のあと驚くべきことを言います「しかし、お言葉ですから網をおろして見ましょう」と。

「しかし」という接続詞は一般的に否定したり拒否したりする時に用います。けれども、シモンがここで言った「しかし」は、人間的能力の限界を越えて一歩踏み出す時の「しかし」です。イエスの言葉に従うという方向転換を意味する「しかし」だったのです。
 果たして、漁に出て網を打つと驚くべきことが起こりました。二艘の船がいっぱいになるほどおびただしい魚が獲れたのです。シモンは「主よ」と言ってイエスの足元にひれ伏しました。この時から彼は「人間を獲る漁師」への召命の道に導かれたのです。

本 論:
この出来事から3つのことを学びたいと思います。
(1)神への畏れを抱いて生きる
 キリスト教の本質は「神を畏れる」ことにあります。「畏れる」とは神の前に謙ること、低くされること、仕える僕になることを意味します。私たちが毎週日曜日にささげる礼拝はまさに主のみ前に「ひれ伏す」ことなのです。そこで霊的活力をいただいて新たに出発するのです。使徒パウロも「恐れ(畏れ)おののきつつ自分の救いを達成しなさい」と述べています。(フィリピ2:12)

(2)さらに勝るものへの熱意
 常識的に、経験的には不可能と思われる状況の中で、先入観を取りのぞいて謙虚になってイエスのお言葉に従う時、さらに勝る祝福、恵み(大漁)が与えられるのです。
神戸ひよどり台教会の始まりはまさにシモン状態「夜通し労苦しましたが、魚が獲れませんでした」でした。しかし、私たちは主のみ言葉に信頼し、必ず祝福されると確信して伝道の働きを続けました。5年後には驚くべき神の奇跡が起こったのです。あれ
から主は私たちにさらに勝る恵みとして、すばらしい新会堂を、会員を、子どもたちと保護者を与えて下さいました。「主は恵みを施そう」と待っていて下さるのです。ハレルヤ!

(3)目標への確信
 シモンはこれほどの大漁を期待してはいなかったかも知れません。私たちは「目標」をしっかり持って伝道に励み、仕事や家庭生活に勤しみ、子育てに励みたいものです。大事なことは信仰をもって目標を定め、必ず事は成就すると確信することです。
あのアブラハムは最愛の息子をモリヤの山で犠牲としてささげた時、「神は必ず備えて下さる」という配慮の神への期待と信頼を持っていたのです。(創世記22:8)目標への確信は必ず実りの結果をもたらされます。

まとめ:
信仰とは希望に生きることです。イエスに対する信頼と期待が希望を生み出します。
イエスを信じた時に与えられた希望が、シオンをして再び沖に漕ぎ出すように導いたのです。「しかし、お言葉ですから従います」―これこそ私たちの信仰でありたい。

2007/05/13(日) 「愛の家庭を築くために」大嶋博道牧師
母の日記念礼拝 (聖書)コロサイ3:12〜18

〔“母の日”を記念して〕
●現在の日本の家庭は本来の姿を形成していると言えるでしょうか。本来の家庭とは一体どのようなものをいうのでしょうか。ある人の定義によるとそれは次のように言われています。「家庭とは働きや学びを支え、充実をさせるための給油の場である、働く喜びを保ち、喜びや悲しみを分かち合う人間生活の根」であり、人間生活の小さな学校である。」と。

 では「健全な家庭を築く」ためにはどのような事を心がければ良いのでしょうか。3つの事が言えると思います。

@その第1の事は、家庭の基本方針をどのように考えるか〜どこに目線を置くのか、と言うことです。その答えはヨシュア記24章14〜15節にあるように「主を畏れ、真心を込めて真実をもって仕える」と言うことです。神様の前に謙遜になり、神に〜ただ神にのみ仕えると言う基本をその家庭の基本方針とすると言う事がその第1の事です。

Aその第2の事は、子どもを中心とする家庭である、と言うことです。サムエル記上2章18〜19節にはハンナは主の御前に仕えるサムエルのために上着を縫い、年に1度それを届けたとあります。サムエルはこの愛に触れて豊かに成長しました。

Bその第3の事は神の言葉と祈りによって家庭の絆を作ると言う事です。Uテモテ1章3〜5節にあるよに神の言葉と祈りのある家庭には信仰の継承があります。神の言葉と祈りによって家庭は一つになり、絆が生まれます。

●アウグスチヌスは10才台から17年間も悪の道に入っていました。しかしこの間も母モニカはずっと祈っていました。この母モニカの祈りによってアウグスチヌスは立ち直ります。涙の祈りによって支えられる者は決して滅びに至る事はないのです。

 今朝のテキストにおいて、パウロが勧めているように、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけ、互いに忍耐して赦し合い、愛を身につけ、いつも感謝し、キリストの言葉(聖書)が家庭に宿るようにしたいものです。

2007/05/06(日) 「イエスの焼き印を受けて」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)ガラテヤ6:14〜17

●今日のみ言葉の中心は「イエスの焼き印を身に受けている」と言う17節のみ言葉です。そしてこのみ言葉から「イエスの焼き印を身に受けたものはどのような生き方をしたら良いのか」と言う事を学びます。

まず、「焼き印」とは「肉体の傷跡」と言う意味があります。当時、羊などに誰の所有の羊かが分かるように焼きごてで印をつけたり、奴隷に誰の所有かを明らかにするために刺青で印をつけたりしていました。それは所有者を明らかにする意味があります。その事からパウロは自分がキリストに属する者、キリストの使
徒だと言ってるのです。

●Uコリント11章23〜29節を見ると、パウロは様々な苦難にあっています。
また、Uコリント1章8節には「耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失った」とあります。それはキリスト故の苦難であり、それが「イエスの焼き印」でもあったのです。 
 あなたはキリストの焼き印を受けていますか。キリストと繋がっていることで(クリスチャンとして)苦しみを経験していますか。キリストの名によって苦しみを受けた事がありますか。

●さて、キリストの焼き印を受けた者は次のような生き方をするようにならねばなりません。
@日々、十字架を仰ぎ見て、復活のイエスの命によって生 かされる生き方がその第1の生き方です。エペソ1章13節)

A神のみ心に従って生きる生き方がその第2の生き方です。(ロマ12章2節)

B喜びと感謝に満たされた生き方が第3の生き方です。喜 びは探さなければ発見出来ないかも知れないですがパウロも喜びの日々を書き残しています。その生き方をするためには祈らねばなりません。 (1テサロニケ5:16〜18)

C献身と証の生き方が第4の生き方です。自分自身を、全てを献げて信仰生活を送り、自分の命を犠牲にして、その事によってキリストを指し示す事が出来る生き方をする事が大切です。 (ローマ12:1〜2)

●イエスの焼き印を誇りとする生き方をする事ができるように日々の信仰生活を豊かに歩みたいものです。





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