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最新の絵日記ダイジェスト
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2007/06/24(日) 「健全な家庭を築くために」岸義紘先生
特別伝道礼拝 (聖書)エフェソ5:21〜33

 ある日の「天声人語」に次のような記事が掲載されていた。イギリスのダイアナ妃が結婚式に際し「聖書に書かれている『妻たちよ・・自分の夫に仕えなさい』という箇所を読まないでほしい」と言い、その意向を聞いた聖職者たちは、次代を担う若いリーダーの考えを取り入れ読まなかったと書かれていた。
 聖書の原文ではこの「仕えなさい」は敢えて書かれてはいない。なぜならこの聖書が書かれた時代背景(女性蔑視)の中にあって最も女性を尊重した書き方なのです。

この「・・しなさい」は一方的な服従の意味ではない。では聖書の真意は何でしょうか。それは弱い立場の女性に配慮した書き方なのです。
しかし、次の「夫たちよ・・妻を愛しなさい」は強い命令形で書かれています。「富める時も、貧しい時も、健やかなる時も、病める時もこれを愛し・・」これは今日の結婚式の時の式文です。どんな時にも現在進行形で妻を愛することを勧めています。

神様は夫婦に対し、互に「愛し合うこと」「仕え合うこと」を勧めています。キリスト者は義務とか命令だから、仕え、愛し合うのではないのです。信仰生活や愛は全く自発的、自由なものです。一方的に従うのではなく、互に相手の意見を尊重しつつ、仕え合っていくところに、健全な家庭が作られるのです。その考えは「主に仕えるように・・」「キリストが教会の頭であり、救い主であるように・・」との聖書の土台があるのです。

神様は罪のために滅び行く私たちのために御子であるイエス・キリストを十字架に付けるほどに私たちを愛して下さっているのです。この愛は神様の自発的、一方的な犠牲を伴うものです。聖書は、教会がこのキリストに仕え、キリストを頭とするように、互に愛し、仕え合うようにと言っています。夫と妻の関係は多様であっても、イエス様の愛に倣って互いに愛し合うことが大切です。この愛は相手のために命を投げ出す救い主と同じ愛です。

 これはキリスト教の倫理、道徳ではなくイエス・キリストの十字架に表された愛と恵みを見上げ、信仰を持っていくときに、そのことが可能となってくるのです。妻を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは私を造られた神様を愛することである。

ですから聖書は「いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい」(5の33)と締めくくっています。そこにイエス様を中心とした健全な家庭が作られるのです。

                            

2007/06/17(日) 「神を畏れ、その戒めを守れ」大嶋博道牧師
父の日礼拝 (聖書)コヘレト12:1〜14

〔「父の日」に寄せて〕
今日は父の日です。特に家庭の父親である皆さんの祝福を祈り、大切なメッセージをお伝えします。
●「コヘレト」とは、集会の中で語られた言葉、集会で語る者(伝道者)、の意味です。
全体を貫いているテーマは「人は如何に生きていったら良いのか」「人生の意味や目的は何か」です。
そしてコヘレトにおいては1章2節・8節、5章14節、6章2節〜4節、7章9節・12節等々で度々使われている「空しい」と言う言葉がキーワードとなっています。「人は、裸で母の胎を出たように、裸で帰る。来たときの姿で、行くのだ。労苦の結果を何一つ持って行くわけではない。これまた、大いに不幸なことだ。・・・その一生の間、食べることさえ闇の中。悩み、患い、怒りは尽きない。」(5章14節〜16節)ここにも人間の生活の営みの空しさが漂っています。

●この「空しい」と言う言葉が度々使われているのは、12章の13節「神を畏れ、その戒めを守れ」というみ言葉を引き出すためでもあります。
 父の日に当たって「神を畏れ、その戒めを守れ」と言うことを学びたいと思います。
結論から申し上げますと、私たちの信仰生活のあり方は、とどのつまり「神を畏れ、その戒めを守る」ことにあります。そのことを、父の日に際して、特に家庭の「父親」は家族に、子どもたちに語るべきだとお伝えしたいと思います。
では、いったい神を畏れるとはどのようなことでしょうか。それは、神を怖がるとか、恐ろしい存在とすることではないのです。
●「神を畏れる」とは
@人知を超えた偉大な存在を認めると言う事です。「サムシング・グレイト」の存在なのです。
A人間が今、存在して、生きているのは、自分の力だけでは 無いと言う事を認めること。
私たちは自分で仕事をし、家庭生活を営み、健康管理をします。しかし、私たちがすべてを支配しているわけではないのです。人は、生かされて生きています。そのことを、謙虚に認めることです。
Bこの私が、宇宙の中の中心にいるのではないと言う事を認める事。人間が世界を支配しているのではありません。世界は神の御手の中に支配され、人間のいのちも神の御手の中にあって支えられているのです。
C聖書に示されている創造主だけを礼拝すると言う事、謙虚に仕え ると言う事です。礼拝とはひれ伏す、仕えることを意味します。

●出エジプト記1章15節に「シフラ」と「プア」と言う二人の助産師が登場します。エジプトの王はこの二人の助産師に男の子が生まれてきたら即座に「殺せ」と命令しますが「シフラ」と「プア」は神を畏れていたのでこの命令には従いませんでした。そして、神様はこの二人に「恵みを与えられました」(1章20節)。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」とあります。
まさに、主を畏れる事は知恵の初め、なのです。               

2007/06/10(日) 「礼拝…喜びの招き」西脇衛士勧士
信徒礼拝 (聖書)詩編100編から

序 論:
 礼拝とは…それは神様に喜びと感謝を捧げるときです。そして礼拝の主体は神様です。
礼拝は神様が天地を創造され7日目に休まれたことを記念して、安息日として神様に感謝を捧げるときではないでしょうか。イスラエル民族は神様を礼拝する民として奴隷から解放され、そのことを記念して神様に感謝の礼拝を喜びを持って守っています。

 ですから礼拝とは喜びを持って神様のみ前に出、感謝を捧げるときなのです。日ごとの悩み、重荷をすべて神様に委ねて、ただ神様に感謝を持ってみ前に出るのです。

では私たちにとってのその喜びとなるものは何でしょうか。
@罪赦され神の子とされていること(ヨハネ1:12)
A神に愛されていること(ヨハネ3:16) 
B私の名前が天に記されていること(ルカ10:20)です。
神様はその喜びを受け入れ、さらなる喜びを与えるために私たちを招いて下さるのです。

本 論: 
礼拝は招詞・・神の招きから始まり、そして、頌栄、賛美と神様を頌めたたえます。詩篇100編は「進み出よ」「主の門に入れ」「その庭に入れ」の言葉が示す通り、礼拝への招きの言葉として会衆入場時に歌われたことを示しているようです。
前半(1〜3)は神殿の門に入る聖歌隊により、後半(4〜5)は迎える神殿聖歌隊によって歌われたものと思われます。その内容を見てみましょう。

○1節「全地よ」、と全ての造られたものを主は招いておられます。
○2節「喜び祝い、主に仕え・・・」、と畏れの心を持って主に従い、礼拝することであり、生活の全てを投げ出して、ただ主にのみ、心を向けるときです。
○3節「知れ、主こそ神であると」は礼拝者の信仰告白であります。「主は私たちを造られた。私たちは主のものその民」造られた私たちは造り主の所有物である事を自覚したいものです。「主に養われる羊の群れ」 主の保護の下に生きる存在であるのです。
○4節「感謝の歌を歌い、賛美の歌をうたい、主の門に進み、主のみ名をたたえつつ、さあ主の庭に入ってきなさい」と主は招いておられるのです。
旧約時代は大祭司しか入れなかった神のみ前に、今、私たちは主イエス・キリストの十字架のあがないの故に恐れなく、大胆に神様に近づく事ができるものにして下さったのです。(ヘブライ10:19〜24)
○5節 それは深い神様の恵みと、とこしえに変わることのない慈しみとによるのです。そしてその真実(アーメン)こそ神様のご本質なのです。(黙示3:14)

そして、霊と真理を持って神様を礼拝し(ヨハネ4:24)、メッセージを通して主イエス様の恵みと、父なる神様の愛を深く教えられます。 
神様への捧げものとして自らを捧げ(ローマ12:1)、ご聖霊に導かれ、祈りと願いと、喜びと感謝を持って(フィリピ4:4〜7)新しい一週間の歩みを始め、日々主を礼拝するものとしたいものです。
「主を喜び祝うことこそ、あなた方の力の源である」 (ネヘミヤ8:10)             

2007/06/03(日) 「空の鳥・野の花を見よ」大嶋博道牧師
花の日礼拝(聖書)マタイ6:25〜34

〔今日は一週間早く「花の日」礼拝を守ります。〕
美しい草花を見たり、空の鳥の鳴き声に耳を傾けながら聖書のみ言葉を学びたいと思います。

●今日は人は何故思い悩むのか、何故あくせくするのか、心配するのかと言う事を学びます。人は何故悩み、あくせくし、そして心配するのか、何故いつも何かに気を遣っているのか?

@自分の未来はこうなると自分で決めているからです。確かでない未来を自分で決めているからです。
A毎日の出来事を悪い方に考えてしまうからです。マイナスでないのにマイナスと考えているからです。
Bいろいろな物を持ちすぎて、それに頼りすぎるからです。沢山物を持ちすぎているのが原因です。
C自分が未完成であると言う事を悟っていないからです。人間の本質は完成されていない(迷い、弱さ、欠け、限界を有してい  る)〜未完 成なもので、それが本来の人間の姿なのです。
D自分の人生を神様に委ねる事が出来ないからです。目に見えない方を信じる幸せを知らないからです。私たちの目には見えな いけれど、確かに生きて臨在されるお方に自分の人生を委ね  る事が出来ないからです。

●では、どうしたら思い悩まなくて良くなるのでしょうか。元々人は思い悩む存在だからイエスは「空の鳥、野の花を見よ」  と、言われたのです。働く事もしないカラスに対して神様は目 を注ぎ、また、朝は咲いても夕方には枯れてしまうような野の 花に対して神は目を留めて美しく装ってくださると語られてい ます。
だとするならばカラスよりも、野の花よりもはるかに価値のあ る人間に対して神様は目を向けてくださらないはずがない、人 間に必要なものをご存知である、だから明日の事は心配する  な、と言われているのです。今日のことは今日、明日の事は明 日、思い煩えば良いと言われるのです。

●今日のみ言葉から学ぶ事として次の事が言えます。
(1)神様は、私たちに試練を与えられるが、その試練と共にそれに耐えられるように「逃れる道(克服の道・脱出の道)も備え ていてくださるのです。しかも、その試練は耐えられないよう なものではないのです。(Tコリント10章13節)

(2)神様は私たちの必要をすべてご存じで、前もって用意していてくださいます。アブラハムがイサクをモリヤの山にささげ た物語(創世記22章1〜14節)からそれを知ることができ ます。

 ウエスレーは「人間の心配はいつも明日(未来)に向けられています。しかし、遠い将来に何をしようなどと思い悩んではなりません。・・・あなたはその日その日の存在でしかないのです。」と述べています。神様はあなたの明日を見ておられ、必要はす
べて備えてくださってます。思い悩まず、安心して今日を生きましょう。


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