|
2007/06/10(日)
「礼拝…喜びの招き」西脇衛士勧士
|
|
|
信徒礼拝 (聖書)詩編100編から 序 論: 礼拝とは…それは神様に喜びと感謝を捧げるときです。そして礼拝の主体は神様です。 礼拝は神様が天地を創造され7日目に休まれたことを記念して、安息日として神様に感謝を捧げるときではないでしょうか。イスラエル民族は神様を礼拝する民として奴隷から解放され、そのことを記念して神様に感謝の礼拝を喜びを持って守っています。 ですから礼拝とは喜びを持って神様のみ前に出、感謝を捧げるときなのです。日ごとの悩み、重荷をすべて神様に委ねて、ただ神様に感謝を持ってみ前に出るのです。 では私たちにとってのその喜びとなるものは何でしょうか。 @罪赦され神の子とされていること(ヨハネ1:12) A神に愛されていること(ヨハネ3:16) B私の名前が天に記されていること(ルカ10:20)です。 神様はその喜びを受け入れ、さらなる喜びを与えるために私たちを招いて下さるのです。 本 論: 礼拝は招詞・・神の招きから始まり、そして、頌栄、賛美と神様を頌めたたえます。詩篇100編は「進み出よ」「主の門に入れ」「その庭に入れ」の言葉が示す通り、礼拝への招きの言葉として会衆入場時に歌われたことを示しているようです。 前半(1〜3)は神殿の門に入る聖歌隊により、後半(4〜5)は迎える神殿聖歌隊によって歌われたものと思われます。その内容を見てみましょう。 ○1節「全地よ」、と全ての造られたものを主は招いておられます。 ○2節「喜び祝い、主に仕え・・・」、と畏れの心を持って主に従い、礼拝することであり、生活の全てを投げ出して、ただ主にのみ、心を向けるときです。 ○3節「知れ、主こそ神であると」は礼拝者の信仰告白であります。「主は私たちを造られた。私たちは主のものその民」造られた私たちは造り主の所有物である事を自覚したいものです。「主に養われる羊の群れ」 主の保護の下に生きる存在であるのです。 ○4節「感謝の歌を歌い、賛美の歌をうたい、主の門に進み、主のみ名をたたえつつ、さあ主の庭に入ってきなさい」と主は招いておられるのです。 旧約時代は大祭司しか入れなかった神のみ前に、今、私たちは主イエス・キリストの十字架のあがないの故に恐れなく、大胆に神様に近づく事ができるものにして下さったのです。(ヘブライ10:19〜24) ○5節 それは深い神様の恵みと、とこしえに変わることのない慈しみとによるのです。そしてその真実(アーメン)こそ神様のご本質なのです。(黙示3:14)
そして、霊と真理を持って神様を礼拝し(ヨハネ4:24)、メッセージを通して主イエス様の恵みと、父なる神様の愛を深く教えられます。 神様への捧げものとして自らを捧げ(ローマ12:1)、ご聖霊に導かれ、祈りと願いと、喜びと感謝を持って(フィリピ4:4〜7)新しい一週間の歩みを始め、日々主を礼拝するものとしたいものです。 「主を喜び祝うことこそ、あなた方の力の源である」 (ネヘミヤ8:10)
|
|
|