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2007/07/29(日) )「嵐の中に立たれるお方」大嶋博道牧師
特別礼拝 (聖書)ルカ4:35〜41

序 論:
今朝の聖書の物語「ガリラヤ湖の風と波が静まる奇跡」は、マルコだけでなく、マタイ、ルカにも記されており、当時の初代教会の信徒たちへの大きな教訓になると共に、21世紀に生きる私たちにも大切な真理を伝える出来事でもあります。

 まず、出来事の内容を学びましょう。
@イエスが「向こう岸」へ渡ろうと言われた事(向こう岸とは対岸のこと、ここではゲラサ地方を指す)
Aイエスが弟子たちの舟に乗っておられた事(弟子たちだけでなくイエスも同席しておられた)
B激しい突風が起こり、舟は水浸しになる程であった事(ガリラヤ湖は地形的にしばしば突風が起こった)
Cその時、イエスは眠っておられた事(艫を枕にして休んでおられたが決して眠ってしまうお方ではない)
D弟子たちは浪風を見て怖がった事(漁師のプロが危機を感じるほどの突風であった)
Eイエスは起き上がって風をしかり、湖に黙れ、静まれと言われた事(イエスの権威を見る)
F弟子たちはイエスを信じた事、が書かれています。

本 論:
この物語が私たちに語りかけているものは何でしょうか。現代は激動の時代、重大な危機をはらんだ時代です。
政局も不安定、経済も低迷し、社会も教育も混乱しています。まさに「突風」をまともに受けている状態です。
「主よ、おぼれてもかまわないのですか」と問いたくなります。神様は試練や危機の中で動揺している私に気づいておられるのだろうか?と思うようになります。
そんな私たちにこの物語は二つの大切なことを教えています。

(1)イエス・キリストは主であり、自然並びに歴史の支配者 である事
「向こう岸に渡ろう」と言われたイエス・キリストがあなたの人生の「向こう岸」への操縦者なのです。
ご存じのように、歴史はBC(Before Christキリスト以前)とAD(Ano Domini 主の年)に分かれていますが、その分岐点はイエス・キリストの誕生にあります。また歴史(History)はHis Story(彼=イエスキリストの物語)とも言われており、イエスは歴史の主であり、この自然界をも支配しておられるお方なのです。ですから、風を叱り、湖の波に向かって「静まれ、黙れ」と命令することができたのです。
あなたの人生の主はイエス・キリストです。このお方にあなたの人生のハンドルを委ねませんか!

(2)イエス・キリストは常に、どんな場所、どんな時にも私たちと一緒におられるお方であると言う事聖書は一貫して神が私たちと艫におられるお方であることをメッセージとして伝えております。
モーセに対しては「荒れ野を先導する・同行する」神として、預言者に対しては「水の中、大河の中で共におられる」神として、詩編では「御翼の陰に保護する」神として、そして新約においてはインマヌエルすなわちGod with us(神我らと共に)というかたちにおいて。そうです、イエス・キリストは私たちが向こう岸に安全に到着するまで共におられるお方です。(マタイ28:20) 

まとめ:
私たちも試練や苦しみの中で主を信頼して、向こう岸に向かって人生の舟を漕ぎ出してみたいものです。
操縦席にはイエス・キリストが座っておられます。安心してまかせましょう。それが信仰というものです!

2007/07/22(日) 「揺るがない歩み」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ローマ8:31〜39

はじめに:
新潟で震度6強の地震が発生し、各地で被害がでています。被災された方々が一日も早く回復されますようにお祈り致します。
実際、大地が揺れるというのは、大変恐ろしく、不安になります。12年前に私たちは神戸で震度7の強震を経験しましたが、まさに大パニックでした。
もし私たちの人生の土台が揺れたり、崩れたりしたらどうでしょうか?どうしたら揺れることのない堅固な人生を築くことが出来るのかをテキストから学びましょう。

序 論:
31節以降は、パウロの「ディアトリベ話法」が用いられています。予想される反論や異論を取り上げ、そこから自分の思想を展開させる話法のことです。
(1)31節−誰が私たちに敵対できるのか?
 〜神が私の味方である。(υπερ(フュペール)―こちら側におられる。 さらに、神は御子(イエス・キリスト)に添えてすべての必要を備えて下さる。

(2)33節−誰が神に選ばれた者を訴えるのか?
εγκαλεω(エグカレオー)告訴する、人間の全存在を問題にする」「揺り動かす」「手玉に取る」の意味。しばしばこのような不愉快な経験を味わいます。
〜人を義として下さる(正しい者と認める)のは神様です。

(3)34節−誰が私たちを罪に定めることが出来るのか?
「悪者」扱いする、生きるに値しない人間とすると置き換えましょう。
〜イエス・キリストが私たちの為に執り成していて下さる。私たちがあるがままで生きる
ことができるように、また罪が赦されて「神の子」として生きることができるように執り成していて下さる。

(4)35節−誰がキリストの愛から私たちを引き離すことが出来るのか?
〜艱難苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣さえもキリストの愛から私たちを離れさせることは断じて出来ない。むしろ、キリストのものとされるために必要な試練であります。

●37節−υπερνικαω(フュペールニカオー)
キリスト者はあらゆる試み、苦しみの中で、びくともしない、輝かしい勝利者(圧倒的勝利者)になるのである。

本 論:
 では、揺るがない歩みをするためにどのような信仰を持てば良いのか?
(1)神は私たちの味方である。(神が側にいて下さる)詩編118:6〜7参照「味方」とは最高の協力者、理解者、支持者です。

(2)神は私たちが最善になるように配慮しておられる。(見守っておられる)。どのような不都合やマイナスの出来事が起こっても、最終的には「最善」が成るように、神はイエス・キリストにおいて導いておられる。(ローマ8:28)

(3)神は私たちに圧倒的な勝利をもたらしてくださる。
「勝ち得て余りがある生活」というのは、ある人は、目標としているところに到達することであり、病気が癒されることであり、性格的な弱さからの解放であり、経済的な繁栄であり、仕事の成功であり、また、ある人にとっては、人間関係の修復でありましょう。
しかし、クリスチャンにとっては、もっと大きな勝利があります。それは、神に選ばれ、神の子とされて永遠のいのちに招き入れられることであります。

まとめ:
 ヘブライ12:28に「このように私たちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。・・・」とあるように、最終的には御国への望みをもって神の最善を信じて歩みたいものです。皆さんの祝福をお祈り致します。   

2007/07/15(日) 「主のご計画に導かれて〜初めての教会」畑中康雄勧士
信徒礼拝(聖書)ルカ19:1〜9

●初めての教会
 私とキリスト教との出会いは中学時代からの文通友達を通して、また私が大学受験勉強をしていた時に聞いたルーテルアワーを通して、また大学に入ってから訪ねる事になった教会を通して始まりました。初めて行った教会では牧師先生が少年のような熱い思いで嬉しそうに、「ザアカイ物語」をザアカイの姿が目に浮かぶような話し方で話してくださいました。

■ザアカイ物語
 徴収人は市民には不人気でした。罪人とされていました。ザアカイもその徴税人の1人でした。
 ザアカイはイエスがどんな人か見たかったが「背が低かった」ので群衆に遮られてイエスを見る事が出来ませんでした。それでイエスを見るために先回りをし、いちじく桑の木に登ると言う努力をしました。救いを得るためには出来る限りの努力をするという「求め」がここにあります。
 さて、そこへイエスが来られます。イエスはそこへ来られた時に「ザアカイ、急いでおりて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われます。何と!イエスはザアカイの名前を知っておられたのです。
 神様に受け入れられる事によってザアカイに「革命的な変化」が起こります。罪の悔い改めです。
 イエスは言われます。「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜し出して救うために来たのである」と。ザアカイは自分がイエスを見つけたと思っていたでしょうが、そうではなくてイエスが既にザアカイを救いのご計画に入れていてくださったのです。

■神様の備え
 1人の人が救われるためにはその人の数だけの出来事があります。あなたが初めて接した聖書のみ言葉はどこでしょうか。その言葉によって心が熱くなった事を覚えてずっとずっと熱く熱くあって欲しいと思います。あらゆる機会を通して、そして万全の備えをなして私を捉えようとしていてくださる神様のご計画に感謝したいと思います。

2007/07/08(日) 聖なる召しにあずかって」大嶋博道牧師
伝道献身者奨励日礼拝 (聖書)エレミヤ1:1〜8  〔「伝道献身者奨励」月間A〕
 
メッセージの前に北中みや子姉のあかしがありました。
今80歳に思うこと・・神様の前に立つ日のことを思い聖書通読に励んでいます。そして、聖書のメッセージをより深く理解するために今、JTJ宣教神学校のDVDを使って在宅で学んでいます。教会学校の学びとしても始めた事ですが結果的には自分のためでもありました。
神様の働きはクリスチャンとしての義務ではなく、宣教の召しにあずかっている者の特権であり、その意味で喜びをもって学ばせて頂いております。また、教会学校の歌を1曲でも弾きたく今、
ピアノを学んでいます。

はじめに:
 聖書には多くの召命物語(モーセ・イザヤ・パウロなど)があります。今日は“涙の預言者”といわれたエレミヤの召命の記事を通して学びます。
神からの召しを受けるということは牧師や、宣教師になるという特別な神様の選びだけを指すのではなく、全てのクリスチャンに当てはまるものです。

本 論:
 エレミヤは祭司の子として誕生し、ヨシアの時代(BC627年頃)からエルサレムの住民がバビロン捕囚となるまで(BC587年頃)の約40年間、預言者として活躍しました。今朝はエレミヤ1:4〜8から「聖なる召し」に関して4つのことを学びましょう。

@神様の先行的な選び(4節)。―クリスチャンは皆、神の先行的(神の前もっての働き・恵み)の中にあります。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなた方を選んだ。」
(ヨハネ15の16)とある通りです。

A神の聖別(分離)―エレミヤは「私は母の胎内に宿る前から聖なる者として別けられていた」(5節)と告白しています。パウロも同様のことを述べています。(ガラテヤ1:15)私たちの召しは主の「聖別」なのです。

B召しに対する躊躇(ためらい)(6節) 選ばれた者であっても弱さや欠けがあり、それ故にためらいはある。モーセは「口が重く、舌の重い者」(出エジプト4:10)と言い、「エレミヤは若者にすぎない」(エレミヤ1:6)と躊躇しています。しかしながら、私たちは十字架の贖いの故に神によって聖別された者であることを自覚したい。

C神の派遣の命令と約束(8節)―7節で「私が命じることをすべて語れ」といわれる神は8節「恐れるな」「あなたと共にいる」「必ず救い出す」と言われる。神は召しに伴う保証を約束
しておられる。

まとめ:
 私たちも主の約束と選びを信じ、ためらわず、今あるところで神の召しに応えたいものです。
ジョン・ウエスレーは6歳の時の牧師館の火災の中から助け出された経験をとおして「自分が生かされて、生きているのは神様のためなすべき仕事があるからだ」という強い召命観、使命感を抱いたそうです。
 私たちは生かされている限り、主の召しに応え続けたいものです。

2007/07/01(日) )「この時代の中に遣わされて」大嶋博道牧師
伝道献身者奨励月間(その1) (聖書)イザヤ6:1〜8

 私たちの教団はこの7月8日〔日)を伝道献身者奨励日として、礼拝を守ります。
これを契機に私たちの教会ではこの7月を「伝道献身者奨励月間」と定め、毎週、信徒に証をしていただきます。特にJTJJ宣教神学校の通信生である西脇衛士兄、北中みやこ姉、永原郁子姉、そして役員の則武満智子姉がそのご奉仕に当たって下さいます。ご期待下さい。

序 論:
●6章1〜7節はイザヤの召命体験が記されています。きわめて稀で、神秘的な宗教体験です。
 ウジヤ王(在位52年)の時代は政治的に、経済的に安定し、栄えてはいましたが、世は乱れ、人々は罪の中にいました。若きイザヤはこの国は滅びるのではないかと言う不安を抱いていました。
そのウジア王は神に罪を犯し、神に打たれて病気(重い皮膚病)を患い、ついに死んだのです。
 ちょうどその頃、危機感を抱いて神殿で働いていたイザヤは召命の体験をします。(BC740前後)
そして主のみ声を聞いた時に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(8節)といいます。

●「神の選び」について
 当時、神殿で働く祭司は大勢いたかも知れません、その中にあって、神はイザヤに目を向けられて、若くて欠けだらけのイザヤに目を注がれたのです。神の選びは神の一方的な恵みと憐れみです。
「1〜4節」によってイザヤは神様の臨在を見ます。神がイザヤに目を向けてくださると言う一方的な行為があり、イザヤはそれを知ります。認めます。そして罪の自覚を経験します。「災いだ。わたしは滅ぼされる(4節)」と言います。そして、唇(全存在)に触れてもらうことによって、罪の赦しの経験をします。このように、神の選びは@神の臨在を見る体験 A滅びるばかりの罪の自覚 B罪が全く赦される体験が伴います。

本 論:
●「神に遣わされる」と言う事について
これらの神秘的な宗教体験を経た後、彼は8節で、主のみ言葉を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」その時、イザヤは即座に「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応答したのです。(8節)
派遣は「ミッシオ」(派遣・使命伝道)」と言いますが、これは神の聖なる宣教に私たちが参与することです。すべての信徒は神の召しに与っており、この世に派遣されているのです。

●伝道献身者奨励月間にあたり、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」とお互いに応答したいものです。
 私たちの多くは牧師や宣教師のように専門的な働きには召されてはいませんが、信徒として、この世にあって家庭や職場や学校や地域に召されており、日々、遣わされているのです。
ですから、神様の貴い働きが出来るように「今この教会からこの世に私を遣わして下さい」と言えるようになりたいものです。(ヨハネ15:16)



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