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2007/08/26(日) 「そして、祝宴を始めた」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ルカ15:20〜32


●私たちは歌を歌います。これをキリスト教では「讃美する」と言います。嬉しい時、悲しい時など、どんな時にでも私たちは心から讃美します。口から主を讃美する歌が出ます。では、何故讃美するのでしょうか。歌が上手だからでしょうか?プログラムに書かれているからでしょか?気分がイイからでしょうか?

●今日の聖書の箇所には有名な「放蕩息子の譬え話」が記されています。失われていた息子が帰ってくるのを待ち続けていた父、死んでいたと思われていた者が帰って来た喜びを語るこの聖書の箇所から神を讃美する理由を学びます。
 24節では「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」そして「宴会を始めた」とあります。この「宴会(ユーフリノー)」と言う言葉の原語の意味には、祝うとか喜びのほかに「讃美する」と言う意味があります。即ち「失われた者が見出される、死んでいたような者が生き返るという驚くべき出来事」が讃美の根拠なのです。神のみ業に感謝するのが讃美なのです。
もし、私たちが「讃美できない」という時には、それは私たちの心の中に神様のみ業がなされていないと言う事の顕れなのです。神のなされたみ業に気づいていないからです。

●25節には「音楽や踊り(シンフォニア)」と言う言葉があります。失われていた息子が見出された喜びがシンフォニア(交響曲)となって響いていたにもかかわらず、兄にはこの「音楽」が「ざわめき(騒音・雑音)」に聞こえた、とあります。
「讃美」が「ざわめき」に聞こえた、と言うところに兄には問題があります。そして父はこの兄をなだめます。
 この兄が、いなくなった弟の事を何時も思っていたならば、気遣っていたなら、弟への愛情があったなら、居なくなった弟が帰って来たこの時に、兄は父と共に喜び、「シンフォニア」の讃美の中に参加したことでしょう。でも兄にはそれが出来なかったのです。ですから、讃美の音楽が「ざわめき」にしか聞こえなかったのです。 
 兄の心は怒りや憎しみ、嫉妬や憤り、f平不満でいっぱいだったのです。だから、「神への感謝、喜びがなかった」のです。ですから音楽が讃美とはならずにざわめきになったのです。

●神のみ業に感謝して、喜びを顕し、神への応答である讃美が出来るように「祝宴」を始めたいと思います。

2007/08/19(日) 「生きた石とされる」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)ペトロ一2:1〜5

今朝のテキストには3つのことが強調されています。
@「この主のもとに来なさい」という美しい呼びかけです。
 聖書の呼びかけの中で最も美しいのは、マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」でしょう。
また、ヨハネ7:37〜38には、「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。」という招きがあります。主のもとに来るとは、主を信じる、主に信頼する、主にすべてを委ねることであります。具体的には礼拝生活、み言葉と賛美と祈りの
生活の中で喜びと感謝を見出し、明日への希望を与えられて生きることです。私たちもこの主の招きに応答したいものです。

A主は尊い、生きた石です。
「石」は元々鉱物で、其れ自体は何年、何十年あるいは何百年を経ても風化こそすれ、決して生きて活動するようなものではありません。じっと動かず、孤独な存在です。このテキストでは主イエスキリストが、建築途上の中で、一度は捨てられた役に立たない石にたとえられています。(詩編118:22参照)
「隅の親石」それは、「土台を決定する貴重な土台石」で建築物を根底から支える最も重要な石のことです。「要石(かなめいし)」とも言われ、建物全体をバランスよくまとめる石でもあります。十字架の主こそが、私たちの人生をどん底で支え、世界とい
う家全体を支える「隅の親石」なのだ、ということがここで告白されています。

B私たちも「生きた石」とされるということです。
 ペトロはここで「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と勧めています。言い換えれば、そのままでは死んだ石です。しかし、聖霊の火をとおされ、練り鍛えられ、訓練されるならば、まさに隅の親石と同じように「生きた石」として豊かに用いられるということ、さらにその土台の上に霊的な家を建てあげることが求められています。

 では、「生きた石」とはどのような姿のことでしょうか?
(1)信仰生活が自らの人生と他の人の人生に影響を与えるようなあり方
 キリスト者として日々の生活の中で、み言葉が教え、諭し、励まし、支え、慰め、叱責し、明日への希望を生み出せるもの。
(2)生きる使命を明確にもつ。
(3)愛を積極的に生み出すことが出来る(他人があなたに愛を感じるように)
(4)争いを好まず「平和を求めてこれを追い続ける」人。(ペトロ一3:11)
(5)不平不満を口にせず、人を裁かず、忍耐をもって赦すことができる。耐え忍ぶ、じっと待ち続けることが出来る人は生きた石なのです。

まとめ:
今朝は、備前焼の花瓶に花が生けられていません。「器(石)」は何年経過してもただの器です。しかし、そこに新鮮な水が注がれ、美しい花が生けられる時に、その器は輝きのある生きたものになるのです。それと同様に、私たちもイエス・キリストを信じ
て、み言葉と祈りと賛美の生活を始めるならば、「生きた石」とされるのです。

2007/08/12(日) 「金銭の正しい使い方」大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)テモテ一6:6〜10

ジョン・ウエスレー説教 「金銭の使い方」(1760年)から「金銭の使い方」でその人の人生は分かると言われています。金銭の使い方は人生観にも繋がっています。そこで、ジョン・ウエスレーの説教「金銭の使い方」から私たちの生活に必要な学びをしたいと思います。

●今日のメッセージの中心となるみ言葉は7〜8節です。今日はジョン・ウエスレーの説教からこの事を学びます。 ウエスレーは「出来るだけ稼ぎなさい」「出来るだけ蓄えなさい」「出来るだけ与えなさい」と教えています。

●「出来る限り稼ぐ」と言う事について
 ウエスレーは金銭を邪悪なものとは考えていませんでした。問題はそれを用いる人間の問題です。「出来るだけ稼ぐ」と言う内容で次の5つの事を教えています。
即ち
@生命、健康を犠牲にしてまで稼いではならない
A自分の体、心を損なう事なしに出来るだけ稼ぐ
B隣人の魂を損なう事なしに出来るだけ稼ぐ
C正直な勤労によって出来る限り稼ぐ
D召された職業において勤勉を尽くして稼ぐ、と言う事です。

●「出来る限り蓄える」と言う事について
 ウエスレーは稼いだ金銭を肉の欲や目の欲、生活の奢りのために費やしてはならないと勧めています。即ち次の5つの事を教えています。
即ち
@一部たりとも肉の欲を満足させるために浪費してはならない。
A目の欲を満足させるために豪華な品々に浪費してはならない。
B暮らし向きの自慢を満足させるために費やしてはならない。
C自分や子どものために美味しいもの、贅沢な品々に浪費してはならない
D自分の子どものためにみすみす財産をの残してはならない、と言う事です。

●「出来る限り与える」と言う事について
 出来る限り稼ぎ、蓄えたら「出来る限り与えなさい」とウエスレーは教えています。私たちは神様の財産の管理人ですから神様のみ言葉に服従しながら、神への犠牲として捧げる事が大切です。

●現代における「金銭」に対する考え方
@「金銭」は神様の賜物として価値があり、大切なものです。
A神の賜物ですから「使う前に10分の1」を聖別してお返しする事が大切です。
B人の危機的な状況に役立つように備えておく事が大切です。
C惜しみなく与え、惜しみなく献げる、ようになりたいものです。
即ち、神様に喜ばれるような使い方をしたいものと思います。

2007/08/05(日) 「真のキリスト者を目指して」大嶋博道牧師
総員礼拝 ローマ5:1〜11
はじめに:
 今朝はジョンウエスレー(1703〜1791)の有名な説教「あと一歩でキリスト者」をとおして、「真のキリスト者」に導かれるために何が必要なのかを学びたいと思います。

 ウエスレーは人間の生きる姿勢を「生まれながら」の状態「律法の下にある」状態、そして「福音の下にある」状態の三段階に分けて説明しています。

「あと一歩でキリスト者(almost christian)」とは 
あと一歩でキリスト者というのは第二段階の「律法の下にある」状態で、具体的には、異教徒の正直さ(不正を行わず、強奪や盗みをせず、貧しい人を虐げず、商売に携わってもごまかしたりだましたりしないなど)が含まれ、さらに、聖書に記された敬虔(礼拝生活、祈り、悔い改め、神への遜った態度など)の形を持ち、本当のクリスチャンの「外見」を持っています。

「全面的キリスト者(altogether christian)」とは 
では、「全面的キリスト者」となるために求められていることは何でしょうか。
ウエスレーは幾つかのことを挙げています。
@全身全霊を尽くしての神への愛(マルコ12章30節) A隣人への愛(マタイ22章9節) B全ての根底にある信仰(Tヨハネ5章11節) C悔い改めや愛や全ての善行に相応しい実を結ぶ信仰(マタイ3章8節) D永遠の呪いから救われると言うキリストへの信頼と確信 E愛によって働く信仰(ガラテヤ5章6節)

現代における「真のキリスト者とは」
21世紀に生きる私たちが、この時代の中で真のキリスト者を目指すために何が必要なのかを二つに要約して述べてまとめたい。
 (1)日々「恵み」を自覚して生きる 〜ただ信仰により、恵みによって救われたことを確認して生きる。(ローマ5:1〜2、エフェソ2:8)
 (2)信仰に基づく愛の実践〜愛と信仰とは密接に関連づけられています。
パウロにとって「信仰」とは、私たちがイエス・キリストに自分のすべて(全生涯)を任せることにほかならず、このことは愛の業において具体的に現れるというのです。(ガラテヤ5:6)

まとめ:
私たちすべての者が、あと一歩でキリスト者となるまでに成長し、そこに留まらず、全面的キリスト者となることを体験することができますように祈ります。
 それは、イエス・キリストによる贖いをとおして、主の恵みにより無代価に義とされ、イエス・キリストによって神との平和を持つに至ったことを知り、神の栄光を望んで喜び、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれることです。(ローマ5:1〜5)ウエスレーのアルダスゲイト街での体験こそ、私たちが真のキリスト者に導かれる秘訣であります。


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