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2007/08/19(日)
「生きた石とされる」大嶋博道牧師
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聖日礼拝 (聖書)ペトロ一2:1〜5 今朝のテキストには3つのことが強調されています。 @「この主のもとに来なさい」という美しい呼びかけです。 聖書の呼びかけの中で最も美しいのは、マタイ11:28「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」でしょう。 また、ヨハネ7:37〜38には、「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。」という招きがあります。主のもとに来るとは、主を信じる、主に信頼する、主にすべてを委ねることであります。具体的には礼拝生活、み言葉と賛美と祈りの 生活の中で喜びと感謝を見出し、明日への希望を与えられて生きることです。私たちもこの主の招きに応答したいものです。
A主は尊い、生きた石です。 「石」は元々鉱物で、其れ自体は何年、何十年あるいは何百年を経ても風化こそすれ、決して生きて活動するようなものではありません。じっと動かず、孤独な存在です。このテキストでは主イエスキリストが、建築途上の中で、一度は捨てられた役に立たない石にたとえられています。(詩編118:22参照) 「隅の親石」それは、「土台を決定する貴重な土台石」で建築物を根底から支える最も重要な石のことです。「要石(かなめいし)」とも言われ、建物全体をバランスよくまとめる石でもあります。十字架の主こそが、私たちの人生をどん底で支え、世界とい う家全体を支える「隅の親石」なのだ、ということがここで告白されています。 B私たちも「生きた石」とされるということです。 ペトロはここで「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」と勧めています。言い換えれば、そのままでは死んだ石です。しかし、聖霊の火をとおされ、練り鍛えられ、訓練されるならば、まさに隅の親石と同じように「生きた石」として豊かに用いられるということ、さらにその土台の上に霊的な家を建てあげることが求められています。
では、「生きた石」とはどのような姿のことでしょうか? (1)信仰生活が自らの人生と他の人の人生に影響を与えるようなあり方 キリスト者として日々の生活の中で、み言葉が教え、諭し、励まし、支え、慰め、叱責し、明日への希望を生み出せるもの。 (2)生きる使命を明確にもつ。 (3)愛を積極的に生み出すことが出来る(他人があなたに愛を感じるように) (4)争いを好まず「平和を求めてこれを追い続ける」人。(ペトロ一3:11) (5)不平不満を口にせず、人を裁かず、忍耐をもって赦すことができる。耐え忍ぶ、じっと待ち続けることが出来る人は生きた石なのです。
まとめ: 今朝は、備前焼の花瓶に花が生けられていません。「器(石)」は何年経過してもただの器です。しかし、そこに新鮮な水が注がれ、美しい花が生けられる時に、その器は輝きのある生きたものになるのです。それと同様に、私たちもイエス・キリストを信じ て、み言葉と祈りと賛美の生活を始めるならば、「生きた石」とされるのです。
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