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2007/09/30(日)
「常に主のみ前に立て」大嶋博道牧師
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特別礼拝 (聖書)列王記上19:1〜18 序論: ●私たちはしばしば「日常生活」に疲れを感じます。また、時には「信仰生活」にも疲れを覚えることもあります。今日の聖書に出てくる「エリヤ」もアハブに従うにせ預言者850人との信仰の戦いで大勝利を治めましたが、その直後、「燃え尽き症候群」におちいり、(ある聖書学者は「反応うつ」状態と言う)アハブとイゼベルから逃亡し、死にたいと思うほど極度の疲れを覚えていました。そのエリヤがどの様にして立ち直ったか、と言う事について学びます。 本 論: ●結論から先に述べます。私たちは常に主のみ前に立つ事によって疲れ〜弱さから立ち直る事が出来ると言えます。 エリヤも(6節にあるように)ベエルシバから主の導きによって神の山と言われるホレブに行きました。神の山ホレブまでの150キロの道のりを40日40夜かけてやっと辿り着いたのです。そこまで歩き続けることが大事なのです。彼はある洞穴に静かに休んでいました。 主は彼に語りかけ「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われました。そして、聖なる臨在を示されました。エリヤは岩を砕くほどの嵐の中にも、大地を揺るがす地震の中にも、また燃える火の中にも神を見出すことが出来なかったのです。しかし、ついに彼は「静かにささやく細きみ声」の中に神の臨在を認め、「洞穴から出て行き主の前に立った」のです。神の静かな語りかけを聴き取ることの大切さを深く感じます。
では、「主の前に立つ」とは私たちにとってはどういう意味なのかを考えてみましょう。 @まず、日曜ごとに「礼拝者」して、神の招きに応えて礼拝に出席するということ、そして。メッセージをしっかり聴くと言う事がその第1の事です。
A日々のデボーション(霊想)中で神に近づく、と言う事がその第2の事です。朝、起きたときにわずか1分でも、2分でも祈ってから一日の歩みを始めることが大切です。また、時を割いてみ言葉を祈りによって神に近づくことも「主のみ前に立つ」姿です。
B伝道や証や奉仕という積極的な教会活動も「主のみ前に立つ」姿です。これが第3のことです。
C僕(しもべ)として謙虚に生きると言う事がその第4のことであり、また一番大切な事です。
●エリヤが疲れたのは彼の傲慢・思い上がりにありました。そして主の前に立ち、神のみ声を聴いた時に再び神様のご用をなす事が出来るようにと新たな使命が与えられたのです。 私たち1人1人も「主のみ前に立ち」主のご用を与えられてその使命に励みたいものであります。 「常に主のみ前に立つ」キリスト者は疲れが癒され、日々、喜びと感謝と平安に満ちた歩みができます。
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