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2007/09/23(日)
「呻(うめ)きの中にある栄光」大嶋博道牧師
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フレンズサンデー礼拝 (聖書)ローマ8:18〜30 序 論: ローマ8章は、聖書の中で最も偉大な章の一つで、今日に至るまでキリスト者に生きる大きな力と慰めと希望を与えてきました。また、信仰によってイエス・キリストにより頼む者に与えられる「永遠の生命の確かさ」を教えています。 今朝のテキストにはかぎになる言葉が幾つかあります。@栄光(ドクサ)Aうめき・うめく(ステナゾー)B希望・待ち望む(アペクデコマイ)辛抱強く待ち望む、期待する これらの言葉をつなぎ合わせると、メッセージの中心が見えてきます。「私たちの日々の生活はうめきや嘆き、苦しみの中にあるが、やがて、キリストの再臨に際して私たちに与えられる栄光ゆえに、忍耐しながら待ち望むことが出来るのである。私たちはその望みゆえに救いに預かっているのである。」
本 論: 私たちが住むこの世界には様々な「うめき」があります。 「うめく」とは@痛さや苦しさのあまり、低い声をもらす。 A嘆息する。ため息をつく。 B悲嘆し、哀泣するなどの意味があり、いずれも激しい「苦痛体験」に起因します。 今朝は3つのうめきを取り上げて、その中にある栄光を見ていきたい。
(1)被造物(クティシス)のうめき 8:22 パウロはおそらく自然界、人類、万物をさして「被造物」と言ったと思われます。これらは天地創造の時に神によって造られたものであります。「共にうめく」とは自然も人間もすべてのものが共に「一つの呻き」をうめくというのです。声を合わせて苦痛を訴えるというのです。それはちょうど、妊婦が赤ちゃんを産むときの陣痛の苦しみにも例えられています。TVや新聞で報道される残虐・非道・理不尽・破壊的なニュースを見るまでもなく、被造物は激しく呻いています。
(2)霊の初穂を頂いているキリスト者のうめき 8:23 キリスト者とはイエス・キリストを主と告白しながら信仰生活をする者のことです。それは聖霊によるのですから「霊の初穂を頂いている」ことになります。キリスト者は確かに罪を赦され、神の子とされ、救われた存在です。しかしながら、からだは(肉体)はなおもこの地上にあるのです。肉体をもって生きている間はキリスト者と言えども、呻きも苦痛もあります。しばしば迷い、悩み、苦しみ痛みます。 しかしながら、主のご再臨の時にからだが贖われること、すなわち栄光のからだに変えられることをうめきながらも待ち望むことが出来るのです。 パウロ先生は「わたしたちはこのような「終末的救い」の望みによって救われている」とはっきり言ってます。「栄化」という神学用語があります。これは、先ほど少し触れましたように、キリストの再臨に際して、キリスト者がイエス・キリストこのような「栄化」という神学用語はパウロ書簡から生まれています。
(3)聖霊が言葉に表せないうめきをもって執り成す 被造物のうめき、キリスト者のうめきを述べたあと、続いて、聖霊の呻きと待望について述べています。私たちキリスト者のうちに住む聖霊もまた呻いているのだ、というのです。聖霊は私たちの弱さを、絶望的な弱さを助け、慰めます。 聖霊ご自身が言い表し得ないうめきをもって、私たちが正しく神のみ心に沿った祈りが出来るように執り成して下さるというのです。
まとめ: キリスト者にとって「うめき」は神の終末的救いである、神の栄光にあずかる前触れということができます。ですから、呻きの中に栄光への希望が備えられているのです。 現在の苦しみの中に、将来の栄光が隠されているわけです。 皆さんが日々の生活の中で「うめき」を感じた時は「栄光の姿に変えられる」前触れと信じて忍耐して待ち望んで頂きたい。 待ち望む信仰の中に、「万事を益として下さる、最善に導いて下さる神の臨在があることを確信したいものです。祝福をお祈り致します。
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