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2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
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2008/01/30(水) 「最も小さい者の一人に」畑中康雄勧士
アドベント信徒礼拝 聖書:マタイ25:31〜46
〔アドベント信徒礼拝〕
●「すべての民族を裁く」とあるように、最後の審判の時にキリストは再臨され「隣人に対する愛の業をなしたかどうか」と言う基準によって裁かれると言われています。
神はどこにおられるのか、と言う事がはっきりと示されています。則ち、神様は今、私が相対している人、面と向かっている人の中にいるのだ、神様は決して偉大な人の中におられるのでは
なくてむしろ「最も惨めな姿をした人、苦しんでいる人の中におられる」と言う事を今日の聖では教えています。

●これは人間が意識しない行為を神様は意識しておられる事の教え(37〜39節)であり、これに対して40節でキリストはご自身を「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と最も小さい者の運命と同一化され、ご自身を空腹者、病人、裸の人、旅人、獄にいる人と同一化されているのです。

●このみ言葉に接する時に私たちキリスト者は隣人が苦しんでいるときに無関心、無作為であって良いと誰が思うでしょうか。マタイによる福音書25章1〜13節にある「10人のおとめのたとえ」にある愚かな娘は何もしなかったと言う怠慢の故に戸の外に閉め出されていますが、今日の聖書の箇所の「左にいる者たち」は彼らの隣人に親切な愛の業をなす多くの機会が与えられて
いたのにその機会を生かす事が出来なかったと言う「何もしない」と言う不作為の故に厳しく罰せられたのです。

●さて私が以前、勤めていた法人はキリスト教主義で運営されていますが、今日の大事業はある1人の方の働きによって興されました。その方はご自分の食べる物、着る物も全て弱り果てて彼
の所に身を寄せている結核患者の為に献げました。そして祈りました。事業が行き詰まりもうダメかと思われ彼の元に身を寄せている約100人の結核患者を神様にお返ししようと決心した時に
神様は不思議な奇跡を興してくださり彼の事業を助けてくださいます。その最も貧しい隣人になした愛の業が神様のみ心にかない今日の大きな福祉事業が興されたのです。

 私たちは隣人の困難を見て、見ぬふりをしていないでしょうか。あなたが最も小さい者にしたのは私にしてくれたのである、とイエス様からお褒めの言葉を頂けるように聖書のみ言葉に従順でありたいと思います。   

2008/01/27(日) 「本当に豊かな人」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝 (聖書)ルカ12:13〜21

序 論:
  これはイエス様の譬え話です。
ある金持ちの畑が豊作だった。彼は作物をしまう場所を思いめぐらし、こう決断したのです。「倉を壊して、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や財産をみなしまい込もう。」そして、彼はこう独り言を言ったのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。さあ、一休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。
 イエス様の譬え話に登場する金持ちの農夫は、今日では、きわめて平均的で常識的な人で、特に、間違った生き方をしてるようには見えません。
ところが、イエス様はこの金持ちの農夫を「愚か者」と呼び捨てています。15節に「貪欲」という言葉が遣われていますが、彼の生き方はまさに「貪欲」そのものだというのです。
この金持ちの農夫が犯した決定的な間違いは、
 @神の眼差しが全く意識されていません。(神の存在が彼の人生にない)
 A共に生きるはずの隣人、一緒にこの地上で生きるはずの人間が全く意識されていません。

本 論:
今朝のテキストから 「本当に豊かな人」とはどのような人なのかを学びましょう。
(1)あなたを本当に生かし、本当に豊かにする主なる神の恵みに心を開く人。
@いのちの贈り主である神様と向き合うこと。
A美しい自然、この世界に生かされていることを心から感謝すること 
Bイエス・キリストをこの世に遣わし、私たちの身代わりとして十字架につけられた神の驚くべき愛の大きさ、豊かさに信仰によって与ること。

(2)共に生きる隣人(他者)を発見し、その必要に正しく応答する人
ザアカイの回心物語(ルカ19:1〜)や良きサマリア人の譬え話(ルカ10:25)のように、必要を訴えている他者に正しく「応答する=response」あり方こそ、その人を真に豊かにするのです。
   
具体的に、「本当に豊かな人」になるためのあり方を幾つか紹介します。
@温かい触れあいの心
A家族や友人、隣人などに関心を寄せる心(つながる)
B信頼や絆を生み出す人間関係
C生活の中の精神的・物質的ゆとりと安らぎ
D心身の健康とそれを受け入れる心
E人生の目標や目的がある(生きる希望)
F環境に振り回されない生き方(自分を確立する)
G感動する心
H自分は誰かに必要とされているという確信
I生きがいがある
J愛する人、愛してくれる人がいる
K心から神様を信じている。だから神様は万事を益(最善に)導いてくださることを信じる事ができる。

まとめ:
詩編23:6を読んで終わります。
「命のある限り 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。 主の家にわたしは帰り 生涯、そこにとどまるであろう。」


2008/01/20(日) 「神の民の再生」〜生き返るために 大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書)エゼキエル37:1〜14

序 論:
 エゼキエル書は預言者エゼキエル(「神は強めてくださる」の意)の預言集であります。
1:2を見ると、ヨヤキン王がバビロンに補囚となって第5年目と記されていますので、エルサレムがバビロンに侵略されて崩壊し、王や祭司などの主な指導者たち、さらに兵士たちや、職人たちがバビロンに連行されて行ったのが紀元前587年ですから、
それから5年後というのは紀元前582年ごろになります。
 1:3を見ると、エゼキエルは祭司ブジの子であり、彼も主な指導者たちの一人として1000キロほど離れたバビロンに捕らえられて行ったと思われます。神のみ手はこの若きエゼキエルに臨み、彼は預言者としての召しを受けたのであります。

今朝のテキストに目を向けましょう。
 神の手はエゼキエルに臨み、彼は「谷の真ん中」に連れて行かれます。37:1を見ると「そこは骨でいっぱいであった」と記されています。しかも「甚だしく枯れた骨」だったというのです。枯れた骨とは、 バビロンに連行され「囚われの身となった」イスラエル民の状態すなわち、生きる意味や目的も失せ、喜びや平安や将来への希望もないまま「死んだような状態」で生活している人々の姿を指しています。

神様は、エゼキエルに「これらの骨に預言して言いなさい」と命じます。その預言の中身は37:5〜6に記されています。
 (1)神はこれらの「骨」の中に霊を吹き込む
 (2)すると、「骨」は生き返る。神はこの骨に筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、その中に「霊を吹き込んで、生きた人間に回復させる」というものです。
エゼキエルは神が命じられたとおり預言を開始します。すると、
@カタカタと音を立てて骨と骨が近づいてきた。(これは、死んだような補囚の民がエゼキエルの預言の 言葉に関心を寄せ、耳を傾けるようになったということでしょう)
A骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆った(これは、エゼキエルの預言に勇気を与えられ、手足 を動かし始め、顔に笑顔が出て、起きあがったということでしょう)
B霊に預言すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ち、大きな集団になった。

本 論: 
この中から幾つかのことを学びたいと思います。
(1)私たちは「枯れた骨」ではないだろうか?
今の日本を見ると、「枯れた骨」や「筋と肉と皮膚に覆われているけど、神の霊が吹き込まれてなくて、死んだような人がたくさんおられます。
モノに恵まれ、経済的に豊かな生活をしているのに、生きる目的や意味を見いだせないまま、空しく生きている人が多い。喜びや感謝が少なく、不平や不満が多い。若者たちの多くは閉塞感、焦燥感、無気力感、空虚感を抱いているのではないか。
「枯れた骨」状態は、2590程前の補囚の民だけではないことを心に留めておきたい。

(2)神の霊を吹き込まれて、初めて人は真に生きる」ということ神の霊を吹き込まれるとはどういうことでしょうか?
創世記2:7に、そのヒントになるみ言葉があります。
「主なる神は土のチリで人(アダム)を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。命の息とは神の霊のことですが、聖霊そのものです。
神の霊−
@それは人間を根底から支え、生かす神の力です。
A私たちの罪を赦し、新しく生まれ変わらせ、神と共に生きることを可能にさせる力。
B私たちに生きる目的と意味を与え、勇気と希望と平安を得させる神の力です。
C私たちが「人を愛することができる」ように、「人に心から仕えることが出来る」ように導く神の力です。

まとめ:
キリスト教は「再生の宗教」と言えましょう。
 罪ゆえに審かれ、滅びる者が罪を赦されて救いに導かれ 絶望の中に生きる者が希望
の中に生きる者とされ、暗闇が光に、不安が平安に、災いが祝福に、死んだような者が生
きる者とされ、この世にあって星のように輝いて生きる者と変えられるのです。

「枯れた骨」に神の霊が吹き込まれたら生き返るのです。そのためにも、
@信仰に堅く立ちましょう。
A聖書のみ言葉の約束に信頼しましょう。
B「礼拝の民」として主のみ前に立ち続けましょう。
C日々、デボーション([霊想)をとおして「霊の糧」をいただき、恵まれたいものです。祝福を心からお祈り致します。


2008/01/13(日) 「キリスト教の救いの原則」大嶋博道牧師
聖日礼拝(聖書) ローマ9:6〜13 

序 論:
キリスト教の救いとは何か
私たちはが宗教に期待するもの、求めるものは「救い」です。それはしばしば、病気が癒され健康を回復すること、経済的に豊かになること、家族に絆が生まれることなど、いわゆる「家内安全・商売繁盛」と言った極めて個人的なものです。
 しかし、キリスト教の救いの中心は、罪からの救い、罪の赦(ゆる)しです。
罪とは、人間が創造(つくり)主である神に背を向けて生きることです。その結果、生きる目的や意味を見失い、間違った生活が生じて来るのです。
 罪の赦しとは、父なる神との関係が正しくされ、和解し回復されることです。
神に背を向けていた者が、神の方に向き直ることです。これを「悔い改め」と呼びます。
 その罪の赦しのために、神の御子であるキリストが、十字架にかかって、人間の罪を負ってくださいました。 キリスト教における「救い」とは、従って、罪が赦されること、そして、赦された者の魂の平安、愛されているという確信でありましょう。この確信が生きるエネルギーを生み出し、辛いこと、苦しいことがあっても、最終的には天国への希望が与えられ耐え、待ち望むことが出来るのです。

 本 論:
 さて、今朝は「救いの原則」についてローマ9:6〜13から学びます。
(1)救いは個人的なものである。 (ローマ1:16)
1:16でパウロは「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力」と、「救い」は個々人の信仰によることを述べています。
 また、異邦人(イスラエルの以外の国民)だから救われないというのではなく、個人的に罪を認め言い表し、イエス・キリストの十字架は、私のためであったと信じる時、民族や血筋に関係なく、だれでも救われるのです。
クリスチャンホームだから、キリスト教国だからと言って、自動的に救われるのではありません。その人個人がキリストを信じるとき救われるのです。

(2)救いは神の約束を信じることによる。 (ローマ4:21)神による救いの第二の原則は、『救い」は神の約束を信じることによって与えられるということです。イサクは、人間的に見れば、全く不可能と見える時に、アブラハムが神の約束を信じることによって、超自然的な神の力によって誕生した者でした。それと同じように、私たちも自分の罪と咎により、滅びて当然の者でしたが、キリストの十字架と復活をによる永遠の救いの約束を信じることによって救われ、神の子とされたのです。

(3)救いは神の選びによる (ヨハネ15:16)
ヨハネ15:16にもありますが、救いは人の行為に先立って、ただ神の恵みによるのです。神は私たちを一方的に愛して、選んでくださり、救いに定められた。そのことを思うときに、「救われたのは神の一方的な、自発的な恵みだなあ」と痛感します。

まとめ:
この3つの救いの原則をしっかり心に留めて、これからも信仰を生活を歩んで行きたいものです。 (ローマ10:9〜10)

2008/01/06(日) 「愛のうちに建て上げられよう」大嶋博道牧師
はじめに:
今日は2008年の教会標語「愛のうちに建て上げられよう」を学びます。
私たちの教会は1986年3月に伝道所開所、1991年4月に教会設立、そして1996年9月に新会堂献堂を行い、主の恵みのうちに教会を建て上げてきました。
今年は改めて「教会を建て上げる」と言うことについて学びます。

序 論:
 教会とはどんなところか、私たちと教会との関わりについて考えてみましょう。
@教会は単に「建物」とか「制度」を指しているのではなく、「神によって召し集められた共同体(群れ)」(ドイツで「ゲマインデ」)であり、
A教会はイエス・キリストの体であり、その頭(かしら)はイエス・キリスト、私たち信徒1人1人はその体を構成する肢体(ギリシャ語でメロス=部分)であり、
Bその1人1人がお互いに補い合って働き、
C霊の働き、愛において共に建て上げられて「神の住まい」となる聖なる場所であります。
キリストの体である教会はこのようにして豊かに成長し、健全に建て上げられるのです。

本 論:
 では、教会が健全に建て上げられるためには何が必要なのでしょうか。それは、
@宗教改革者たちは教会を定義して、神の言葉(説教)が正しく語られ、聖礼典(洗礼・聖餐)が正しく執行されているところに教会がある、と言いました。私はさらに、
A教会は伝道や証しをとおしてイエス・キリストが積極的に宣べ伝えられ、信徒同士の間に主の愛に基づく真実な交わりがなされるところと確信します。
B次に、それぞれが異なっているという「多様性」を認め合うと言う事が大切です。
C次に、お互いが欠けたところを支え合うと言う「相補性」を 持つ事、「破れをそっと繕うようにカバーする」ことが大切です。
教会と共に信徒が健全に建て上げるために具体的なことをお伝えします。
私たちは「身体」「精神」「霊性」(wholistic=全存在)が共に健全に建て上げられ、大きく成長しなければなりません。

 そのためには具体的に次の4つの事が大切です。
@謙遜・柔和・寛容・愛が成長しなければなりません。
A平和の絆で結ばれ、霊による一致を保たなければなりません。
B聖日礼拝を守り、聖書に日々親しまなければなりません。
C日常の言葉を大切にし、謙遜であり、間違いを率直に認め、お互いの存在に関心を持ち、相手の必要を知るように努めなければなりません。

まとめ:
 そのためにも自分に与えられた賜物(分)に応じて奉仕し、証しをなし、伝道し、職場では忠実に働き、家庭にあっては良き存在になるように励みたいと願います。

2008/01/02(水) 「良き力に守られ」大嶋博道牧師
年末感謝礼拝 (聖書)詩編46:1〜12
はじめに:
今日の礼拝が今年の最後の聖日礼拝になります。今年は教会標語に「愛のうちに建て上げられよう」と言うみ言葉をかかげて歩んできましたが、神戸ひよどり台教会は恵まれて、まことに愛のうちに建て上げられた一年だったとの思いで感謝で一杯です。(10月〜12月で受洗者が7名)

本 論:
46編のキーワード「神が私たちの安全地帯」
さて、今日のみ言葉の8節と12節が46章のキーワードです。二つの節とも同じ言葉が語られています。
「万軍の主はわたしたちと共にいます。ヤコブの神はわたしたちの砦の塔」神様は私たちを避難場所すなわち「安全地帯」に入れると約束していてくださいます。
まことに、「神は私たちの安全地帯」なのです。本来、私たちの安らぎの場所は家庭ですが、でも聖書はそれ以上に「神様の臨在の場」が私たちの安らぎの場、居心地の良い場所であると語っています。

たとえ地が変わり、山々が揺らぐとも
 46章3節に「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも」とあります。山が海に移ると言うようなことはあり得ない事なのですが、でも例えそのような事があったとしても神様は私たちのさけどころであると詩人は言っています。
どのような困難な問題が私たちに起ころうとも神様は私たちの「安全地帯」なのです。

一度、自分の力を抜こう!
 11節では「力を捨てよ(静まれ)」とあります。あなたを支えているものを一度捨てなさい、と言われているのです。私たちの日常生活の中で自分の力となっているもの、支えとなっているものを一度捨てなさいと言われているのです。
皆様も一度捨ててみてはどうでしょうか。その時にこそ、本当にあなたを支えているものを見いだす事が出来るのではないでしょうか。その時に、あなたを根底から支えているものが何であるかと言うことを知る事が出来るようになるのです。 神様の愛のうちに建て上げられたいものです。神こそが私たちの安全地帯であり、支えなのですから。

「我、ここに立つ」
今年一年間、神様の愛のうちにあった事、支えられてきた事を感謝します。宗教改革者マルチンルターと共にどのような危機的状況の中にあっても確信をもって「われここに立つ」と告白したいものです。そこが最も良い神の安全地帯なのです。
一年を感謝し、新しい年に期待しましょう。


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