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2008/01/13(日)
「キリスト教の救いの原則」大嶋博道牧師
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聖日礼拝(聖書) ローマ9:6〜13 序 論: キリスト教の救いとは何か 私たちはが宗教に期待するもの、求めるものは「救い」です。それはしばしば、病気が癒され健康を回復すること、経済的に豊かになること、家族に絆が生まれることなど、いわゆる「家内安全・商売繁盛」と言った極めて個人的なものです。 しかし、キリスト教の救いの中心は、罪からの救い、罪の赦(ゆる)しです。 罪とは、人間が創造(つくり)主である神に背を向けて生きることです。その結果、生きる目的や意味を見失い、間違った生活が生じて来るのです。 罪の赦しとは、父なる神との関係が正しくされ、和解し回復されることです。 神に背を向けていた者が、神の方に向き直ることです。これを「悔い改め」と呼びます。 その罪の赦しのために、神の御子であるキリストが、十字架にかかって、人間の罪を負ってくださいました。 キリスト教における「救い」とは、従って、罪が赦されること、そして、赦された者の魂の平安、愛されているという確信でありましょう。この確信が生きるエネルギーを生み出し、辛いこと、苦しいことがあっても、最終的には天国への希望が与えられ耐え、待ち望むことが出来るのです。 本 論: さて、今朝は「救いの原則」についてローマ9:6〜13から学びます。 (1)救いは個人的なものである。 (ローマ1:16) 1:16でパウロは「ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、すべて信じる者に、救いを得させる神の力」と、「救い」は個々人の信仰によることを述べています。 また、異邦人(イスラエルの以外の国民)だから救われないというのではなく、個人的に罪を認め言い表し、イエス・キリストの十字架は、私のためであったと信じる時、民族や血筋に関係なく、だれでも救われるのです。 クリスチャンホームだから、キリスト教国だからと言って、自動的に救われるのではありません。その人個人がキリストを信じるとき救われるのです。
(2)救いは神の約束を信じることによる。 (ローマ4:21)神による救いの第二の原則は、『救い」は神の約束を信じることによって与えられるということです。イサクは、人間的に見れば、全く不可能と見える時に、アブラハムが神の約束を信じることによって、超自然的な神の力によって誕生した者でした。それと同じように、私たちも自分の罪と咎により、滅びて当然の者でしたが、キリストの十字架と復活をによる永遠の救いの約束を信じることによって救われ、神の子とされたのです。
(3)救いは神の選びによる (ヨハネ15:16) ヨハネ15:16にもありますが、救いは人の行為に先立って、ただ神の恵みによるのです。神は私たちを一方的に愛して、選んでくださり、救いに定められた。そのことを思うときに、「救われたのは神の一方的な、自発的な恵みだなあ」と痛感します。
まとめ: この3つの救いの原則をしっかり心に留めて、これからも信仰を生活を歩んで行きたいものです。 (ローマ10:9〜10)
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