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2008/01/20(日)
「神の民の再生」〜生き返るために 大嶋博道牧師
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聖日礼拝(聖書)エゼキエル37:1〜14 序 論: エゼキエル書は預言者エゼキエル(「神は強めてくださる」の意)の預言集であります。 1:2を見ると、ヨヤキン王がバビロンに補囚となって第5年目と記されていますので、エルサレムがバビロンに侵略されて崩壊し、王や祭司などの主な指導者たち、さらに兵士たちや、職人たちがバビロンに連行されて行ったのが紀元前587年ですから、 それから5年後というのは紀元前582年ごろになります。 1:3を見ると、エゼキエルは祭司ブジの子であり、彼も主な指導者たちの一人として1000キロほど離れたバビロンに捕らえられて行ったと思われます。神のみ手はこの若きエゼキエルに臨み、彼は預言者としての召しを受けたのであります。 今朝のテキストに目を向けましょう。 神の手はエゼキエルに臨み、彼は「谷の真ん中」に連れて行かれます。37:1を見ると「そこは骨でいっぱいであった」と記されています。しかも「甚だしく枯れた骨」だったというのです。枯れた骨とは、 バビロンに連行され「囚われの身となった」イスラエル民の状態すなわち、生きる意味や目的も失せ、喜びや平安や将来への希望もないまま「死んだような状態」で生活している人々の姿を指しています。
神様は、エゼキエルに「これらの骨に預言して言いなさい」と命じます。その預言の中身は37:5〜6に記されています。 (1)神はこれらの「骨」の中に霊を吹き込む (2)すると、「骨」は生き返る。神はこの骨に筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、その中に「霊を吹き込んで、生きた人間に回復させる」というものです。 エゼキエルは神が命じられたとおり預言を開始します。すると、 @カタカタと音を立てて骨と骨が近づいてきた。(これは、死んだような補囚の民がエゼキエルの預言の 言葉に関心を寄せ、耳を傾けるようになったということでしょう) A骨の上に筋と肉が生じ、皮膚がその上を覆った(これは、エゼキエルの預言に勇気を与えられ、手足 を動かし始め、顔に笑顔が出て、起きあがったということでしょう) B霊に預言すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立ち、大きな集団になった。
本 論: この中から幾つかのことを学びたいと思います。 (1)私たちは「枯れた骨」ではないだろうか? 今の日本を見ると、「枯れた骨」や「筋と肉と皮膚に覆われているけど、神の霊が吹き込まれてなくて、死んだような人がたくさんおられます。 モノに恵まれ、経済的に豊かな生活をしているのに、生きる目的や意味を見いだせないまま、空しく生きている人が多い。喜びや感謝が少なく、不平や不満が多い。若者たちの多くは閉塞感、焦燥感、無気力感、空虚感を抱いているのではないか。 「枯れた骨」状態は、2590程前の補囚の民だけではないことを心に留めておきたい。 (2)神の霊を吹き込まれて、初めて人は真に生きる」ということ神の霊を吹き込まれるとはどういうことでしょうか? 創世記2:7に、そのヒントになるみ言葉があります。 「主なる神は土のチリで人(アダム)を形造り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。命の息とは神の霊のことですが、聖霊そのものです。 神の霊− @それは人間を根底から支え、生かす神の力です。 A私たちの罪を赦し、新しく生まれ変わらせ、神と共に生きることを可能にさせる力。 B私たちに生きる目的と意味を与え、勇気と希望と平安を得させる神の力です。 C私たちが「人を愛することができる」ように、「人に心から仕えることが出来る」ように導く神の力です。 まとめ: キリスト教は「再生の宗教」と言えましょう。 罪ゆえに審かれ、滅びる者が罪を赦されて救いに導かれ 絶望の中に生きる者が希望 の中に生きる者とされ、暗闇が光に、不安が平安に、災いが祝福に、死んだような者が生 きる者とされ、この世にあって星のように輝いて生きる者と変えられるのです。 「枯れた骨」に神の霊が吹き込まれたら生き返るのです。そのためにも、 @信仰に堅く立ちましょう。 A聖書のみ言葉の約束に信頼しましょう。 B「礼拝の民」として主のみ前に立ち続けましょう。 C日々、デボーション([霊想)をとおして「霊の糧」をいただき、恵まれたいものです。祝福を心からお祈り致します。
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