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最新の絵日記ダイジェスト
2016/03/06 信徒礼拝 「考え直す人生」畑中康雄勧士
2015/03/02 「運ぼう、主の恵みを」大嶋博道牧師
2015/01/04 「主は恵みを与えようとして」 イザヤ書30:18〜19 
2014/12/28 「信仰と希望に踏みとどまる」コロサイ1:21〜23 
2014/12/21 「本当の豊かさを求めて」ルカ2:8〜14

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2008/10/26(日) 「主イエスの背を見続けて」大嶋博道牧師
フレンズ・サンデー礼拝  マタイ16:21〜27

序 論:
「弟子たちの召命物語」
「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とイエスは言われ、シモン、アンデレ、ヤコブそしてヨハネは時をおかずにイエスに従いました(マタイ4章18〜22節)生活の糧である職業と父・家を捨ててイエスに従ったのです。イエスの弟子になった4人はイエスの背中を見つめて歩き始めました。

「十字架を目指す途中で」
16章22節によるとペテロはイエスをわきへ連れ出していさめ始めます。するとイエスは「サタン、引き下がれ」と言われます。「引き下がれ」とは「私の後ろに廻れ」と言う意味です。則ち「私の背を見る位置に戻れ」と言う意味です。弟子にとって大切な事は「イエスの背中を見続ける」と言う事です。
 イエスの背には「権威」がありました。「力」がありました。「厳しさ」がありました。そして誰をも惹きつける「愛」がありました。

本 論:
 イエスの背を見続けるということはどういうことなのか?
@イエスと信仰によってつながっている、と言う事が第1の大切な事です。
 ヨハネ15:5でイエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。「つながる」を意味する「メノー」はつながる、結びつく、とどまると訳されています。さらに、結合する
とも訳せます。つまり、イエス様と私たちの強い絆を意味します。イエス様の背を見続けるということは「つながり続け、目を離さないでいる」と言うことです。

A自分を捨てて、自分の十字架を背負い続けると言う事が第2の事です。
イエスに従って行こうと決意した時、既にイエスの十字架を背負っているのです。人を愛すると言う事は既に自分の十字架を背負っているのです。(マルチン・ルターの言葉)私たちは自分の人生を丸ごと引き受けて生きなければならないのです。自分のこと、家族のこと、職場のことなど関わりの中で生じる様々な困難な事柄を引き受けること、そこに自分の十字架を負う姿があります。

まとめ:
 私たちも信仰によってイエスにつながり、十字架を背負い続けてイエス・キリスト、則ち「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら」全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、日々自分に定められている競争を忍耐強く、最後まで走り抜きたい(ヘブライ12章2節参照)ものです。イエスの背を見続ける人生には喜びと感謝と平安と明日への希望が備えられています。(祈祝福)

2008/10/19(日) 「望みを求めて」西脇衛士勧士
信徒礼拝  列王記下5:1〜14

序 論:
 聖書は私達に望みを与えてくれる書物です。その望みは神にあります。
今朝、ナアマンの記事から「望みを求めて」と言うことを学んでみましょう。彼はアラムの軍司令官、王に重んじられ、真の神に用いられる立派な人物であった。が、それにも優る悩み、重い皮膚病にかかっていた。彼の望みはこの病が癒されることであった。

 ある時、イスラエルから捕虜として連れてきた少女の「私の国には病を癒すことの出来る預言者がいます」との声に預言者のもとを訪れる。彼は預言者が出てきて手厚く持てなし、患部に手を置き、祈ってくれるものと思った。しかし、召使いの「ヨルダン川で7度身を洗え」との伝言だけであった。怒ったナアマンは帰ろうとしたが、僕が「難しい事ならしたでしょう。7度川に身を浸すだけですよ」との声に従い、川に身を浸した。この行為は自らの恥ずかしい姿を見せることであり、プライドを捨てることである。しかし、そのことにより彼は病からの解放の望みがかなえられた。神を動かそうとした彼は神に捕らえられ、神を信じた。ハレルヤ!

本 論:
私達にも多くの望みがあります。しかし、その望みも失望に、挫折に終わることが多くあります。しかしその望みを支える望みがあるのです。アブラハムは望み得ないのになお望んだと記してあります。(ローマ4:18)
私達の望みを支えるもの、それは―
@神は愛です(1ヨハネ4:16)  
A神は最善をされるお方(詩119:68)
B神は備えて下さる(創22:14)お方と言う信仰です。(1ペテロ1:21)

この世のものは消え去り、私達の望みを支えてはくれません。私達を支えるものそれは神ご自身であり、神の言葉です。(詩119:81)では、消えることのない望み・神のお約束とは何か、それは―
@日々新しくされる望み(2コリント4:16) 
A復活の望(1テサロニケ4:13) 
Bキリストが私の内に住んで下さると言う約束です。(コロサイ1:27)この望みは朽ちず、汚れることのない天に蓄えられているものです。(1ペテロ1:3/4)

まとめ
 この素晴らしい望みを戴こうとする時、私達もナアマンのように神の前に自らのありのままの姿を現わし、プライドを捨て、神にのみ信頼(信仰)を置くことなしにこの望みを持つことはできません。この望みの上に私達の望みを置く時、決して失望に終わることのない日々が歩めるのではないでしょうか。この望みを熱心に追い求めていきましょう。(コロサイ3:1)

2008/10/12(日) 「主は与え、主は取られる」大嶋博道牧師
喜びと感謝の特別礼拝(聖書)ヨブ記1:13〜22

はじめに:
本日は、礼拝の中で小川千秋姉の洗礼式を執行致します。また、上井珪一兄と香代姉の結婚50年(金婚)祝福の祈りを行います。

序 論:
 今朝のメッセージの中心はヨブ記1:21です。
「主が与え、主が奪う(取り去る)」とヨブの人生経験は、実は、ヨブだけのものでなく、私たち一人一人の経験でもあります。そして、旧約・新約聖書の全体の中心的なテーマです。聖書が紹介するヨブは宗教的な信仰が立派、道徳倫理的に正しく、財産に恵まれ、まさに三拍子揃っていたというのです。
そんなヨブに試練が訪れます。家畜などの財産が奪われ、使用人が殺され、子どもたちまでも災害で死んでしまったのです。つまり、ヨブは今まで与えられたものが全部取り去られてしまったのです。とてつもない損害(ダメージ)を受けたのです。
このような大きな試練と生活環境のマイナス変化の中で、ヨブが告白した言葉が、今朝の聖書の箇所なのです。

本 論:
 「聖書の中心テーマ」は「主は与え、主は取られる」と言うことであることを心に留めて頂きたい。主である神は私たちに必要なものを与えられるお方、しかし、同時に、その神は、私たちのものを取られるお方なのです。

創世記22:1以降のアブラハムがイサクをささげた物語を見ておきましょう。
アブラハムは高齢になって、一人子イサクを与えられました(創世記21:2)そのイサクを神は奪い取ろうとされたのです。(創世記22:2)このアブラハムの体験こそ、ヨブ記の中心テーマ「主は与え、主は取られる」そのものでした。アブラハムがすべてにおいて神に従順に従ったことは周知のとおりです。

二つの大切な聖書のメッセージをお伝えします。
私たちに大事なことは、主は与え、主は取られるという信仰に立つことです。
(1)すなわち、主権は私たちにではなく、神にあるというのです。1:21には、ヘブライ語で「アドナイ(主)」が繰り返されている!与えるお方は主であり、奪うお方も主なのだ、と強調しています。

(2)もう一つは、神のなされることは、その時に適って美しいということ。コヘレト3章にあるように、私たちには様々な時が与えられています。最終的には、私たちに与えられた時は神の支配のもとにあるのですから、「美しい」というのです。すなわち、私たちの人生で味わう順境も逆境も、幸いも不幸も、喜びも悲しみも、神のみ手の中での経験ですから、最終的には神は「万事を益として(美しく彩って)くださる」のです。
 詩編の記者はこのように言ってます。
 「神よ、私の時はあなたのみ手にあります。」( My times are in Your hands!)
まとめ:
イエス・キリストを信じる「信仰」には、地上の幸・不幸を超越した、魂の安息が伴います。人生のすべての出来事の中に神のみ心を確信し、神の主権を認め、神にすべてを明け渡して(ゆだねて)生きる時に、喜びと平安が与えられるのです。

2008/10/05(日) 「主よ、いつわたしたちは」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式 (聖書)マタイ25:31〜46/フィリピ2:1〜11
序 論:
「信仰生活」には、二つの決定的な特徴があります。一つは、「目に見えない」ということ、もう一つは、しかしながら、最後の時にははっきり見える形でその結末が明らかにされる、ということです。この神秘的な奥義(秘められた神の聖なるご計画)を、今朝のテキストから学びたいと思います。

マタイ25章には「天国についての譬え話」が紹介されています。その中でイエスキリストはご自分の再臨と最後の審判の時のことを譬えで語られました。
@花婿を待つ10人のおとめ。(賢いおとめはランプの油を用意して待っている。)
A主人に託されたタラントンの譬え(主人が帰ってくるまでにタラントを十分活用して主人の期待に応えたしもべ。)
B最後の審判の時にすべての人を裁かれる主の譬え(「最も小さい者のひとり」にした愛の業のゆえに与えられる永遠の命)
「天国の譬え話」は、私たちが、最後の審判が訪れて神の前に立たされて最終的に問われるのは、ただ一つのこと、それは「忠実に生きたかどうか」ということだけなのです。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねた」ことが「忠実」の証だというのです。(25:35〜36)
 神を愛するとか、イエス・キリストを愛するというのは、具体的には、「これらの最も小さい者」の一人に目を向け、関心を寄せ、愛のわざを行うということなのです。

本 論:
今朝のテキストのキーワードは「忠実」です。私たちが忠実である、とはどういうことなのかを幾つか述べたいと思います。
(1)神に対する謙虚な信仰(ピスティス)はまさに「忠実」そのもの。―日曜ごとの礼拝も日々の祈りとみ言葉と賛美のデボーションも、奉仕もすべては「忠実」です。

(2)自分の利益のためでなく、人の益になるための愛の業は「忠実」そのもの。―お互いに自分のためなら必死になるし、多少の犠牲を払います。しかし、「忠実」とは自分の利益を計算しないこと、自分を捨てることなのです。イエス・キリストのケノーシス(謙卑)に「忠実」を見ることができます。(フィリピ2:1〜11参照)

まとめ:
今日、私たちの周辺にはこのような貧しい人たちはいないかも知れません。しかし、孤独と不安の中で震えている人、生きる意味や目的も見出せないまま、虚しく過ごしている人、人間関係に疲れ果て死にたいと思っている人、悲しみや痛みの中で涙している人、そして本当の豊かな人生を探している人は限りなくおられます。

「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というイエス・キリストの言葉を心に刻みましょう。最後の時、神の前に立たされて精算を求められた時に「忠実なしもべ」と称されるために。 


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