|
2008/10/26(日)
「主イエスの背を見続けて」大嶋博道牧師
|
|
|
フレンズ・サンデー礼拝 マタイ16:21〜27 序 論: 「弟子たちの召命物語」 「私についてきなさい。人間をとる漁師にしよう」とイエスは言われ、シモン、アンデレ、ヤコブそしてヨハネは時をおかずにイエスに従いました(マタイ4章18〜22節)生活の糧である職業と父・家を捨ててイエスに従ったのです。イエスの弟子になった4人はイエスの背中を見つめて歩き始めました。
「十字架を目指す途中で」 16章22節によるとペテロはイエスをわきへ連れ出していさめ始めます。するとイエスは「サタン、引き下がれ」と言われます。「引き下がれ」とは「私の後ろに廻れ」と言う意味です。則ち「私の背を見る位置に戻れ」と言う意味です。弟子にとって大切な事は「イエスの背中を見続ける」と言う事です。 イエスの背には「権威」がありました。「力」がありました。「厳しさ」がありました。そして誰をも惹きつける「愛」がありました。
本 論: イエスの背を見続けるということはどういうことなのか? @イエスと信仰によってつながっている、と言う事が第1の大切な事です。 ヨハネ15:5でイエス様は「わたしにつながっていなさい」と言われました。「つながる」を意味する「メノー」はつながる、結びつく、とどまると訳されています。さらに、結合する とも訳せます。つまり、イエス様と私たちの強い絆を意味します。イエス様の背を見続けるということは「つながり続け、目を離さないでいる」と言うことです。
A自分を捨てて、自分の十字架を背負い続けると言う事が第2の事です。 イエスに従って行こうと決意した時、既にイエスの十字架を背負っているのです。人を愛すると言う事は既に自分の十字架を背負っているのです。(マルチン・ルターの言葉)私たちは自分の人生を丸ごと引き受けて生きなければならないのです。自分のこと、家族のこと、職場のことなど関わりの中で生じる様々な困難な事柄を引き受けること、そこに自分の十字架を負う姿があります。 まとめ: 私たちも信仰によってイエスにつながり、十字架を背負い続けてイエス・キリスト、則ち「信仰の創始者、また完成者であるイエスを見つめながら」全ての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、日々自分に定められている競争を忍耐強く、最後まで走り抜きたい(ヘブライ12章2節参照)ものです。イエスの背を見続ける人生には喜びと感謝と平安と明日への希望が備えられています。(祈祝福)
|
|
|