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2008/10/12(日)
「主は与え、主は取られる」大嶋博道牧師
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喜びと感謝の特別礼拝(聖書)ヨブ記1:13〜22 はじめに: 本日は、礼拝の中で小川千秋姉の洗礼式を執行致します。また、上井珪一兄と香代姉の結婚50年(金婚)祝福の祈りを行います。 序 論: 今朝のメッセージの中心はヨブ記1:21です。 「主が与え、主が奪う(取り去る)」とヨブの人生経験は、実は、ヨブだけのものでなく、私たち一人一人の経験でもあります。そして、旧約・新約聖書の全体の中心的なテーマです。聖書が紹介するヨブは宗教的な信仰が立派、道徳倫理的に正しく、財産に恵まれ、まさに三拍子揃っていたというのです。 そんなヨブに試練が訪れます。家畜などの財産が奪われ、使用人が殺され、子どもたちまでも災害で死んでしまったのです。つまり、ヨブは今まで与えられたものが全部取り去られてしまったのです。とてつもない損害(ダメージ)を受けたのです。 このような大きな試練と生活環境のマイナス変化の中で、ヨブが告白した言葉が、今朝の聖書の箇所なのです。 本 論: 「聖書の中心テーマ」は「主は与え、主は取られる」と言うことであることを心に留めて頂きたい。主である神は私たちに必要なものを与えられるお方、しかし、同時に、その神は、私たちのものを取られるお方なのです。
創世記22:1以降のアブラハムがイサクをささげた物語を見ておきましょう。 アブラハムは高齢になって、一人子イサクを与えられました(創世記21:2)そのイサクを神は奪い取ろうとされたのです。(創世記22:2)このアブラハムの体験こそ、ヨブ記の中心テーマ「主は与え、主は取られる」そのものでした。アブラハムがすべてにおいて神に従順に従ったことは周知のとおりです。 二つの大切な聖書のメッセージをお伝えします。 私たちに大事なことは、主は与え、主は取られるという信仰に立つことです。 (1)すなわち、主権は私たちにではなく、神にあるというのです。1:21には、ヘブライ語で「アドナイ(主)」が繰り返されている!与えるお方は主であり、奪うお方も主なのだ、と強調しています。
(2)もう一つは、神のなされることは、その時に適って美しいということ。コヘレト3章にあるように、私たちには様々な時が与えられています。最終的には、私たちに与えられた時は神の支配のもとにあるのですから、「美しい」というのです。すなわち、私たちの人生で味わう順境も逆境も、幸いも不幸も、喜びも悲しみも、神のみ手の中での経験ですから、最終的には神は「万事を益として(美しく彩って)くださる」のです。 詩編の記者はこのように言ってます。 「神よ、私の時はあなたのみ手にあります。」( My times are in Your hands!) まとめ: イエス・キリストを信じる「信仰」には、地上の幸・不幸を超越した、魂の安息が伴います。人生のすべての出来事の中に神のみ心を確信し、神の主権を認め、神にすべてを明け渡して(ゆだねて)生きる時に、喜びと平安が与えられるのです。
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