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2008/10/05(日)
「主よ、いつわたしたちは」大嶋博道牧師
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総員礼拝・聖餐式 (聖書)マタイ25:31〜46/フィリピ2:1〜11 序 論: 「信仰生活」には、二つの決定的な特徴があります。一つは、「目に見えない」ということ、もう一つは、しかしながら、最後の時にははっきり見える形でその結末が明らかにされる、ということです。この神秘的な奥義(秘められた神の聖なるご計画)を、今朝のテキストから学びたいと思います。 マタイ25章には「天国についての譬え話」が紹介されています。その中でイエスキリストはご自分の再臨と最後の審判の時のことを譬えで語られました。 @花婿を待つ10人のおとめ。(賢いおとめはランプの油を用意して待っている。) A主人に託されたタラントンの譬え(主人が帰ってくるまでにタラントを十分活用して主人の期待に応えたしもべ。) B最後の審判の時にすべての人を裁かれる主の譬え(「最も小さい者のひとり」にした愛の業のゆえに与えられる永遠の命) 「天国の譬え話」は、私たちが、最後の審判が訪れて神の前に立たされて最終的に問われるのは、ただ一つのこと、それは「忠実に生きたかどうか」ということだけなのです。「飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねた」ことが「忠実」の証だというのです。(25:35〜36) 神を愛するとか、イエス・キリストを愛するというのは、具体的には、「これらの最も小さい者」の一人に目を向け、関心を寄せ、愛のわざを行うということなのです。
本 論: 今朝のテキストのキーワードは「忠実」です。私たちが忠実である、とはどういうことなのかを幾つか述べたいと思います。 (1)神に対する謙虚な信仰(ピスティス)はまさに「忠実」そのもの。―日曜ごとの礼拝も日々の祈りとみ言葉と賛美のデボーションも、奉仕もすべては「忠実」です。
(2)自分の利益のためでなく、人の益になるための愛の業は「忠実」そのもの。―お互いに自分のためなら必死になるし、多少の犠牲を払います。しかし、「忠実」とは自分の利益を計算しないこと、自分を捨てることなのです。イエス・キリストのケノーシス(謙卑)に「忠実」を見ることができます。(フィリピ2:1〜11参照)
まとめ: 今日、私たちの周辺にはこのような貧しい人たちはいないかも知れません。しかし、孤独と不安の中で震えている人、生きる意味や目的も見出せないまま、虚しく過ごしている人、人間関係に疲れ果て死にたいと思っている人、悲しみや痛みの中で涙している人、そして本当の豊かな人生を探している人は限りなくおられます。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」というイエス・キリストの言葉を心に刻みましょう。最後の時、神の前に立たされて精算を求められた時に「忠実なしもべ」と称されるために。
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