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2008/11/30(日) 「最も小さい者の一人に」畑中康雄勧士
「最も小さい者の一人に」畑中康雄勧士
アドベント信徒礼拝 聖書:マタイ25:31〜46

〔アドベント信徒礼拝〕
●「すべての民族を裁く」とあるように、最後の審判の時にキリストは再臨され「隣人に対する愛の業をなしたかどうか」と言う基準によって裁かれると言われています。
神はどこにおられるのか、と言う事がはっきりと示されています。則ち、神様は今、私が相対している人、面と向かっている人の中にいるのだ、神様は決して偉大な人の中におられるのでは
なくてむしろ「最も惨めな姿をした人、苦しんでいる人の中におられる」と言う事を今日の聖書では教えています。

●これは人間が意識しない行為を神様は意識しておられる事の教え(37〜39節)であり、これに対して40節でキリストはご自身を「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の1人にしたのは、私にしてくれたことなのである」と最も小さい者の運命と同一化され、ご自身を空腹者、病人、裸の人、旅人、獄にいる人と同一化されているのです。

●このみ言葉に接する時に私たちキリスト者は隣人が苦しんでいるときに無関心、無作為であって良いと誰が思うでしょうか。マタイによる福音書25章1〜13節にある「10人のおとめのたとえ」にある愚かな娘は何もしなかったと言う怠慢の故に戸の外に閉め出されていますが、今日の聖書の箇所の「左にいる者たち」は彼らの隣人に親切な愛の業をなす多くの機会が与えられて
いたのにその機会を生かす事が出来なかったと言う「何もしない」と言う不作為の故に厳しく罰せられたのです。

●さて私が以前、勤めていた法人はキリスト教主義で運営されていますが、今日の大事業はある1人の方の働きによって興されました。その方はご自分の食べる物、着る物も全て弱り果てて彼
の所に身を寄せている結核患者の為に献げました。そして祈りました。事業が行き詰まりもうダメかと思われ彼の元に身を寄せている約100人の結核患者を神様にお返ししようと決心した時に
神様は不思議な奇跡を興してくださり彼の事業を助けてくださいます。その最も貧しい隣人になした愛の業が神様のみ心にかない今日の大きな福祉事業が興されたのです。

 私たちは隣人の困難を見て、見ぬふりをしていないでしょうか。あなたが最も小さい者にしたのは私にしてくれたのである、とイエス様からお褒めの言葉を頂けるように聖書のみ言葉に従順でありたいと思います。   

2008/11/23(日) 「涙と共に種を蒔く」大嶋博道牧師
収穫感謝&子ども祝福礼拝(聖書) 詩編126:1〜6

はじめに:
先週は岡山県の和気教会と鹿忍教会の特別礼拝に招かれて出かけていました。昭和20年〜32年まで父が牧会していた教会です。私は和気で生まれ、小学校5年生の一学期まで住んでいました。礼拝が終わって、一人の高齢の女性が私に近づいてきて「博道ちゃん、私誰か分かる?」と、尋ねてきました。「う〜ん、どなたでしたか?」と質問すると、「森脇のお姉ちゃんよ、私はあなたのお父さんに洗礼を受けてからずっとこの教会で信仰生活を続けているの。」
50年ぶりの故郷は感動と感謝の恵まれたひとときでした。ここにも、かつて父が困難な中で涙の種を蒔いた実の豊かな実り(収穫)があることを知って神に感謝したしだいです。

序論:
詩編126編は「巡礼の歌」と言われています。昔、イスラエルの民はエルサレム神殿に礼拝のために上るとき、このような喜びと感謝の歌を歌ったのではないかと思います。この詩編の根底には、BC587年のバビロン捕囚の苦しみと、BC(2)538年の解放の喜びと、帰還してエルサレム神殿の再建への希望などが込められていると言われています。

詩編126編を3つに分けると、
@1〜3節―過去の恵み(バビロン捕囚からの解放の通知に歓喜する。
A4節―現在の祈り(ネゲブの川のように、民の帰還を祈る)
B5〜6節―将来への希望(現在の労苦は必ず将来の収穫につながる)

 さて、「種を蒔く」とはどういうことでしょうか?
農家の人たちにとって、「種まき」は命がけの仕事です。それは、家族や親族の生活がかかっているからです。種を蒔いて芽が出て、豊かに成長して収穫を迎えられるかどうかは重大な関心事なのです。ブラジルのコーヒーの栽培と収穫をなんども見聞きしてきましたが、まさに、命がけの「種まき」です。それゆえに、収穫の時は大いなる歓喜の時、生涯で最高の涙を流す時なのです。
 私たちの仕事も、学生の学びも、家庭での子育てもすべては「種まき」と言えるでしょう。生きることは「種を蒔き続ける」ことなのです。

本論:
では、この「涙の種まき」に大事なことは何かを二つ述べたいと思います。
(1)忍耐すること、耐えること
「忍耐」とは、苦しみをこらえること、我慢すること、辛抱することです。忍耐と訳されているギリシャ語の「ヒュポモネー」は人の意思に反して起こった労苦に耐えること、苦痛の針を忍ぶことを意味し、戦争や恐怖に満ちた死の場面で用いられる言葉のようです。そこでは、ただ一途に耐えるしかないのです。
その忍耐には、
@じっと待つこと A信頼して委ねることの二つが伴います。(ローマ5:1〜5)

(2)希望をもって喜ぶこと
忍耐は最終的には「希望」を生み出します。むしろ、忍耐とは明るい希望をもって耐え、生き抜くという積極的な面があろうかと思います。
D..ボンフェッファーは「人は希望と共に大きく成長する」と言いました。希望のないところに生のエネルギーはありません。
私たちは涙の種まきのゴールに希望の収穫があることを覚えたいと思います。神様は「涙の労苦」を「喜びと感謝の収穫」に変えて下さいます。

まとめ:
日々の生活の中で、困難や労苦はつきものです。特に、信仰生活には様々な迫害や試練がつきまといます。しかし、み言葉にあるように、涙の種まきがあってこそ豊かな刈り入れの時が訪れるのです。神様がなされる最善のみわざに期待しましょう。祝福をお祈りしています。

2008/11/16(日) 「豊かに実る教会」 本田右一牧師(加古川キリスト教会)
特別礼拝  (聖書)フィリピ4:10〜20

はじめに:
 本日、特別礼拝にお招きを頂き感謝いたします。その折、大嶋牧師より「教会のあるべき姿を語って下さい」とのリクエストを受け、今日のメッセージを用意させて頂きました。

序 論:
パウロが生み出した教会は数多くありますが、一番愛した教会はフィリピの教会だと思います。
私もフィリピの教会の姿を目指して35年間牧会に励んできました。フィリピ4章は結びの箇所です。普通、手紙は祈りで終わるものです。同じパウロがローマ、ガラテヤ等の教会に書いた手紙もしかりです。しかし、フィリピの手紙では祈りと共に感謝が書かれています。この手紙はパウロがエパフロディトをフィリピの教会に送り出した時に託した手紙です。フィリピの教会は祈りと共に多くの献げものをしてパウロの欠けを助けていたのです。

本 論:
 ここでパウロの手紙の真意(メッセージ)は何なのかを考えました。
余談になりますが、「徒然草」に贈り物をしてくれる人や良き医者を友に持つこと進めた段があります。
フィリピ4章を読むとき、パウロは贈り物に対する感謝の表し方に苦労しています。牧師もまた贈り物をするとき、頂く時に人をつまずかせないようにと心を配ります。
パウロはフィリピ教会からの献げものを「主の時、恵みの時」の献げものと受け止め感謝をしています。
 
しかし10節以降にパウロは「富んでいる時も、貧しい時も、空腹の時も、物が余っている時にも、いかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。私を強くして下さる方によって全てが可能です」といって献げものがあるからとか、無いからとかの思いを言っているのではなく、また、献げものに異議を言っているのではないのです。人は○○があれば満足するという考えがあります。がここでは献げものの背後にあるものを言っています。 

パウロは献げものを香ばしい神様への献げもの、と言っています。一リトラ(約三百万円)のナルドの香油を献げた女性の記事がヨハネ12章にあります。その女性はそれだけの犠牲を主に献げたのです。
それと同じように、パウロへの献げものにはフィリピの人々の多くの犠牲があったのです。パウロの喜びはこの犠牲的な献げものに対する感謝であると思い、また神様に対する香ばしいいけにえだと言っています。

まとめ:
 本当の献身のすがたとは、無学、無能、無力のままの自分を主に献げる事なのです。パウロはその献げものの姿にフィリピ教会の献身の姿を見たのです。神戸ひよどり台教会がフィリピの教会に倣って豊かな実りある教会となりますようにとお祈り致します。  


2008/11/09(日) 「荒れ野で叫ぶ声」 西脇衛士勧士
信徒礼拝 (聖書)マタイ3:1〜12,ヨハネ1:29〜30

序 論:
今朝は新約聖書に最初に登場する預言者、バプテスマのヨハネの声に聞いてみたい。彼はイエス・キリストの先駆者として“荒野で叫ぶ声”となった。彼は預言者イザヤによって預言された人である。その彼が最初に語った言葉は「悔い改めよ。神の国が近づいた。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」である。この時代、ローマ帝国の圧政に苦しむユダヤでは、メシヤを待ち望む多くの人々がいた。
 彼らの多くはヨハネのメッセージを聞き、神の国の近いことを知り、悔い改めのバプテスマを受けにヨルダン川にやってきた。彼の使命はメシヤが来られ事(神の国が来る)、主の道を整えさせることであり、そのために悔い改めを民衆に語った。そしてこの世に来られたメシヤ(裁き主であり、救い主)を紹介した。

本 論: 
1,神の国の到来―
 イエス様の来臨によって神の国はこの世に来たのである。私達は今、神のご支配(神が王である)の中に生かされています。その神の恵みに生かされています。私たちは神様の手の中にあるのですから、全ての重荷を神様に委ねていくときに安らぎがあるのです。律法によって恵みを得ようとした旧約の時代は過ぎたのです。「見よ今は恵みの時、見よ今は救いの日です。」(コリント二6:2)

2,悔い改めを迫った―
 当時のユダヤ民族はメシヤ待望の信仰はあったが、過去に於いて彼らは幾世代にわたって神を裏切り続けた大きな罪があった。当時、皇帝礼拝がありローマに組みする人も大勢いたのではないだろうか。私達は今、パリサイ人が言う律法から解放され恵みの中に生かされています。がこの世に同調する信仰生活はないだろうか。
私達は日々、悔い改めるべきものを悔い改めているだろうか。主イエスから目を離す生活ではなく、悔い改めて、主に向かって歩む生活へと方向転換したいものです。

3,主の道を整え―
悔い改める事を教えられるために、心に主をお迎えするために、心を整える祈りとデイボーションの時が必要ではないでしょうか。ヨハネは最後にこの世に神の国をもたらせるイエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と紹介している。
律法からの解放者、神の豊かな恵みを与えてくださるお方、私達の罪の悔い改めを受け入れて下さるお方、そのために贖罪の子羊となって下さった方。ヨハネはい聖書は「この方(人となって下さった神・イエス)を見よ」、と叫んでいます。

結 論: イエス様を日々心にお迎えする  
「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ、悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(黙示録3:19−20)
信仰生活とは日々主を心にお迎えし、主と共に歩む(みことばに養われる生活)ことではないでしょうか。主イエス・キリストを私の心に、家庭にお迎えするとき、そこに神の国の平安とやすらぎが訪れます。今朝もう一度、主を心にお迎えするために、荒野で叫ぶヨハネの声を聞き、従いましょう。


2008/11/04(火) 「死背負って生きる」大嶋博道牧師
召天者追悼記念礼拝 (聖書)詩編90:1〜12、フィリピ3:20

序論:
ある修道院の壁に「メメント・モリ」というラテン語で書かれた文字が掲げられています。「死を記憶せよ」という意味です。「人は死ぬ存在であることを心に刻め」ということでしょうか。
詩人リルケが「人間は生まれながらにして自分の中に死の種子を宿している」と述べましたが、確かに、私たちは生まれた時から死に向かって進んでいます。
 今朝読んで頂いた詩編90:10にも「・・・瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と記されています。人間の一生が荒れ野に咲く花や野の草花に例えられていますが、それは「はかない」とか「一瞬」という意味です。
(イザヤ40:6〜7,詩編103:15〜16,ヨブ14:1など)
 淀川キリスト教病院の柏木先生は「人は死を背負って生きている」と言われました。生きてきた後に死が訪れるのではなく、生きている中で絶えず死を背負っているというのです。生の裏に死が存在し、死の表は生なのですね。
 
本 論:
 詩編90:12で詩人は「生涯の日を正しく数えるように教えて下さい」と神に祈り求めています。限られた人生の中でどのような生き方をすることが最も神の御心に適っているのかを問いかけているのです。
二つのことを学びたいと思います。

(1)私たち生活の営みには「神が定めておられる時(カイロス)」がある。出来事には偶然はありません。すべては神の必然の中で起こっているのです。ですから、私たちのときは神のみ手の中にあることを心から受け入れたいと思います。私たちの目から見て、良いことも悪いことも、幸いなことも不幸なこともすべて神のご計画の中にあることを信じたいと思います。
 詩編の詩人は「私の時は、御手の中にあります。」(My times are in Your Hand.)と、心から告白しています。

(2)神はすべてを「時宣」に適うように彩って下さる。
「時宣に適う」とは、神はあらゆることを神のみ手の中で美しくして下さる、ということです。私たちの人生には、病気や仕事の失敗や様々な悲しい出来事など「美しくない」で出来事や場面が起こります。時には削除したり、忘れてしまいたいような出来事もあります
しかし、それでも神はこれらのものを用いて最終的には美しく(最善に)導いて下さるのです。パウロは「万事を益としてくださる」(ローマ8:28)と告白しています。

まとめ:
 一人のクリスチャンがホスピス病棟に入院してこられました。最期を迎えた時に、家族に「では行ってきます。また天国でお会いしましょう」と声をかけて、平安のうちに召されました。信仰によって天国への希望を抱いて最期を迎えた人の姿でした。


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