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2008/11/23(日)
「涙と共に種を蒔く」大嶋博道牧師
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収穫感謝&子ども祝福礼拝(聖書) 詩編126:1〜6 はじめに: 先週は岡山県の和気教会と鹿忍教会の特別礼拝に招かれて出かけていました。昭和20年〜32年まで父が牧会していた教会です。私は和気で生まれ、小学校5年生の一学期まで住んでいました。礼拝が終わって、一人の高齢の女性が私に近づいてきて「博道ちゃん、私誰か分かる?」と、尋ねてきました。「う〜ん、どなたでしたか?」と質問すると、「森脇のお姉ちゃんよ、私はあなたのお父さんに洗礼を受けてからずっとこの教会で信仰生活を続けているの。」 50年ぶりの故郷は感動と感謝の恵まれたひとときでした。ここにも、かつて父が困難な中で涙の種を蒔いた実の豊かな実り(収穫)があることを知って神に感謝したしだいです。 序論: 詩編126編は「巡礼の歌」と言われています。昔、イスラエルの民はエルサレム神殿に礼拝のために上るとき、このような喜びと感謝の歌を歌ったのではないかと思います。この詩編の根底には、BC587年のバビロン捕囚の苦しみと、BC(2)538年の解放の喜びと、帰還してエルサレム神殿の再建への希望などが込められていると言われています。 詩編126編を3つに分けると、 @1〜3節―過去の恵み(バビロン捕囚からの解放の通知に歓喜する。 A4節―現在の祈り(ネゲブの川のように、民の帰還を祈る) B5〜6節―将来への希望(現在の労苦は必ず将来の収穫につながる) さて、「種を蒔く」とはどういうことでしょうか? 農家の人たちにとって、「種まき」は命がけの仕事です。それは、家族や親族の生活がかかっているからです。種を蒔いて芽が出て、豊かに成長して収穫を迎えられるかどうかは重大な関心事なのです。ブラジルのコーヒーの栽培と収穫をなんども見聞きしてきましたが、まさに、命がけの「種まき」です。それゆえに、収穫の時は大いなる歓喜の時、生涯で最高の涙を流す時なのです。 私たちの仕事も、学生の学びも、家庭での子育てもすべては「種まき」と言えるでしょう。生きることは「種を蒔き続ける」ことなのです。 本論: では、この「涙の種まき」に大事なことは何かを二つ述べたいと思います。 (1)忍耐すること、耐えること 「忍耐」とは、苦しみをこらえること、我慢すること、辛抱することです。忍耐と訳されているギリシャ語の「ヒュポモネー」は人の意思に反して起こった労苦に耐えること、苦痛の針を忍ぶことを意味し、戦争や恐怖に満ちた死の場面で用いられる言葉のようです。そこでは、ただ一途に耐えるしかないのです。 その忍耐には、 @じっと待つこと A信頼して委ねることの二つが伴います。(ローマ5:1〜5) (2)希望をもって喜ぶこと 忍耐は最終的には「希望」を生み出します。むしろ、忍耐とは明るい希望をもって耐え、生き抜くという積極的な面があろうかと思います。 D..ボンフェッファーは「人は希望と共に大きく成長する」と言いました。希望のないところに生のエネルギーはありません。 私たちは涙の種まきのゴールに希望の収穫があることを覚えたいと思います。神様は「涙の労苦」を「喜びと感謝の収穫」に変えて下さいます。 まとめ: 日々の生活の中で、困難や労苦はつきものです。特に、信仰生活には様々な迫害や試練がつきまといます。しかし、み言葉にあるように、涙の種まきがあってこそ豊かな刈り入れの時が訪れるのです。神様がなされる最善のみわざに期待しましょう。祝福をお祈りしています。
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