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2008/11/04(火) 「死背負って生きる」大嶋博道牧師
召天者追悼記念礼拝 (聖書)詩編90:1〜12、フィリピ3:20

序論:
ある修道院の壁に「メメント・モリ」というラテン語で書かれた文字が掲げられています。「死を記憶せよ」という意味です。「人は死ぬ存在であることを心に刻め」ということでしょうか。
詩人リルケが「人間は生まれながらにして自分の中に死の種子を宿している」と述べましたが、確かに、私たちは生まれた時から死に向かって進んでいます。
 今朝読んで頂いた詩編90:10にも「・・・瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」と記されています。人間の一生が荒れ野に咲く花や野の草花に例えられていますが、それは「はかない」とか「一瞬」という意味です。
(イザヤ40:6〜7,詩編103:15〜16,ヨブ14:1など)
 淀川キリスト教病院の柏木先生は「人は死を背負って生きている」と言われました。生きてきた後に死が訪れるのではなく、生きている中で絶えず死を背負っているというのです。生の裏に死が存在し、死の表は生なのですね。
 
本 論:
 詩編90:12で詩人は「生涯の日を正しく数えるように教えて下さい」と神に祈り求めています。限られた人生の中でどのような生き方をすることが最も神の御心に適っているのかを問いかけているのです。
二つのことを学びたいと思います。

(1)私たち生活の営みには「神が定めておられる時(カイロス)」がある。出来事には偶然はありません。すべては神の必然の中で起こっているのです。ですから、私たちのときは神のみ手の中にあることを心から受け入れたいと思います。私たちの目から見て、良いことも悪いことも、幸いなことも不幸なこともすべて神のご計画の中にあることを信じたいと思います。
 詩編の詩人は「私の時は、御手の中にあります。」(My times are in Your Hand.)と、心から告白しています。

(2)神はすべてを「時宣」に適うように彩って下さる。
「時宣に適う」とは、神はあらゆることを神のみ手の中で美しくして下さる、ということです。私たちの人生には、病気や仕事の失敗や様々な悲しい出来事など「美しくない」で出来事や場面が起こります。時には削除したり、忘れてしまいたいような出来事もあります
しかし、それでも神はこれらのものを用いて最終的には美しく(最善に)導いて下さるのです。パウロは「万事を益としてくださる」(ローマ8:28)と告白しています。

まとめ:
 一人のクリスチャンがホスピス病棟に入院してこられました。最期を迎えた時に、家族に「では行ってきます。また天国でお会いしましょう」と声をかけて、平安のうちに召されました。信仰によって天国への希望を抱いて最期を迎えた人の姿でした。


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