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2008/11/09(日)
「荒れ野で叫ぶ声」 西脇衛士勧士
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信徒礼拝 (聖書)マタイ3:1〜12,ヨハネ1:29〜30 序 論: 今朝は新約聖書に最初に登場する預言者、バプテスマのヨハネの声に聞いてみたい。彼はイエス・キリストの先駆者として“荒野で叫ぶ声”となった。彼は預言者イザヤによって預言された人である。その彼が最初に語った言葉は「悔い改めよ。神の国が近づいた。主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」である。この時代、ローマ帝国の圧政に苦しむユダヤでは、メシヤを待ち望む多くの人々がいた。 彼らの多くはヨハネのメッセージを聞き、神の国の近いことを知り、悔い改めのバプテスマを受けにヨルダン川にやってきた。彼の使命はメシヤが来られ事(神の国が来る)、主の道を整えさせることであり、そのために悔い改めを民衆に語った。そしてこの世に来られたメシヤ(裁き主であり、救い主)を紹介した。
本 論: 1,神の国の到来― イエス様の来臨によって神の国はこの世に来たのである。私達は今、神のご支配(神が王である)の中に生かされています。その神の恵みに生かされています。私たちは神様の手の中にあるのですから、全ての重荷を神様に委ねていくときに安らぎがあるのです。律法によって恵みを得ようとした旧約の時代は過ぎたのです。「見よ今は恵みの時、見よ今は救いの日です。」(コリント二6:2)
2,悔い改めを迫った― 当時のユダヤ民族はメシヤ待望の信仰はあったが、過去に於いて彼らは幾世代にわたって神を裏切り続けた大きな罪があった。当時、皇帝礼拝がありローマに組みする人も大勢いたのではないだろうか。私達は今、パリサイ人が言う律法から解放され恵みの中に生かされています。がこの世に同調する信仰生活はないだろうか。 私達は日々、悔い改めるべきものを悔い改めているだろうか。主イエスから目を離す生活ではなく、悔い改めて、主に向かって歩む生活へと方向転換したいものです。
3,主の道を整え― 悔い改める事を教えられるために、心に主をお迎えするために、心を整える祈りとデイボーションの時が必要ではないでしょうか。ヨハネは最後にこの世に神の国をもたらせるイエス・キリストを「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」と紹介している。 律法からの解放者、神の豊かな恵みを与えてくださるお方、私達の罪の悔い改めを受け入れて下さるお方、そのために贖罪の子羊となって下さった方。ヨハネはい聖書は「この方(人となって下さった神・イエス)を見よ」、と叫んでいます。 結 論: イエス様を日々心にお迎えする 「私は愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ、悔い改めよ。見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれか私の声を聞ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」(黙示録3:19−20) 信仰生活とは日々主を心にお迎えし、主と共に歩む(みことばに養われる生活)ことではないでしょうか。主イエス・キリストを私の心に、家庭にお迎えするとき、そこに神の国の平安とやすらぎが訪れます。今朝もう一度、主を心にお迎えするために、荒野で叫ぶヨハネの声を聞き、従いましょう。
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