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最新の絵日記ダイジェスト
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2008/02/24(日) 「偉大ではなかった生涯」〜この人を見よ 西脇衛士勧士
フレンズサンデー信徒礼拝 (聖書)フィリピ2:5〜11,Uコリント8:9

序 論:
私たちは人に賞賛され、認められる生涯を送りたいと思います。
そこで今朝、偉大と思われるイエス様の生涯を見てみたいと思います。昨年、「偉大ではなかった生涯」と言う26行からなる詩に出会い、心が惹かれました。前半の要約は「彼はおとめを母として寒村に生まれ、30歳まで大工として働き、3年の間、巡回伝道者として町々を歩き、家庭も持たず、肩書きも持たず、普通の人が偉大だと考えることは何一つしなかった。その生涯の終わりには、持てる全てのものを奪われ、友に捨てられ、泥棒と一緒に十字架に架けられて死んだ」というものです。この詩のどこに偉大と言える場面があったかと思いました。

本 論
 では、偉大な生涯とはどのような生涯でしょうか。一代で多くの冨を築き、この世界に多くの功績を残し、あらゆる名誉と肩書きを与えられ、惜しまれつつこの世を去っていった人をいうのでしょうか。もしそうなら今の世にも多くの偉大な生涯を送った人がいるでしょう。もしイエス様の弟子が、パウロがイエス様の真の姿を書き残さなかったとしたら、2千年の歴史に名を残していなかったかも知れません。あるカウンセラーは「もう少し上手くたち振る舞っておれば、彼は多くの人に受け入れられ、宣教も拡大し、偉大な生涯を送った人といわれたのではないか」と語っている。

しかしここにもう一つ、この世の価値とは違うイエス様の生涯を知って頂きたい。
 イエス様は貧しい人、当時社会の隅に追いやられている人と寝食を共にし、家族にも受け入れられない(理解されない)生活をしていた。(マルコ3:20-22)しかし、彼は万物を創造された神(コロサイ1:15・16)が、人間の姿をとられたのである。彼は私たちに神の愛を教え、仕え、救うため、十字架に架かるために私たちの住む世界に来て下さったのです。

 しかし何も持たずに死なれた方を、父なる神様はこのイエス様を高く引き上げ、あらゆる名に優る名(権威)をお与えになり、彼に信仰を置くものを救うこと(信仰の創始者また完成者)とされました。それによって信じるものに神の恵みが注がれ、豊かな生涯を、いや永遠のいのちを生きるようにして下さったのです。
詩の後半部分の要約は「この2千年の歴史の中でいかなる力も、いかなる国も、いかなる制度もたった一人の生涯ほどには人間の生に影響を与えることはできなかった」と締めくくっています。

まとめ
私たちもこの世で身を立て、名をあげ、功績を上げることもなく、肩書きもなく、人がうらやむ生涯は送れないかも知れませんが、主イエス様に繋がり、自らを低くし、神と人に仕え、愛する生涯を送ることができたなら「主に喜ばれる偉大な生涯を歩んだと言えるのではないでしょうか。
これからの生涯、「この人(イエス様)を仰ぎ見つつ走る」信仰生活を送りましょう。
(ヘブライ12:1−2)            

2008/02/17(日) 「祈りを聞き、涙を見た」大嶋博道牧師
聖日礼拝(教会総会の日)(聖書) 列王記下20:1〜11

序 論:

 BC701年頃、南王国ユダのヒゼキア王は「人生の真っ盛り」の時に「死の病」に冒されました。
預言者はイザヤは彼を訪れ「あなたは死ぬ事になっているから、家族に遺言をしなさい」と残酷な預言とアドバイズをしました。この言葉を聞いたヒゼキヤは壁に顔を向けて心から祈ります。
彼は人目もはばからず、心の底から涙を流して神に「病の癒し」を祈り続けました。

 ヒゼキヤは列王記下18章5節〜によると@主の戒めを良く守りA主がいつもともに居られB彼が企てた事はすべて成功したと記録されているように歴代の王の中で最も信仰深いすばらしい王でした。彼の命がけの祈りはついに聞かれ、さらに15年の寿命が延ばされたのです。

本 論:
 さて、本日のみ言葉から次の事を学びましょう。
@「主は私たちの流す涙を見ておられる」と言う事がその第1の事です。
私たちは人生の中で実に多くの涙を流します。病気や仕事の失敗や人間関係の難しさなどから引き起こされる苦しみや痛みや寂しさなどで涙を流し、自らの弱さや欠け、非力から涙を流します。
そのような私たちを主は見ておられます。そしてその悲しみの涙の意味を分かって下さり、流した涙をしっかりと受け止めてくださるのです。詩編の詩人は「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えて下さい」(詩編56:9)と懇願しています。神様は見ておられるお方です。ですから、私たちも真実に神に向き合いたいと思います。

A「主は祈りを聞いてくださるお方である」と言う事がその第2の事です。
私たちが祈る祈りは必ず神に聞き届けられます。神は祈りを受け止めて下さるお方です。ただし、「祈りが聞かれる」と言う事は私たちの祈り(願い・要求・希望)がそのとおりに神に聞かれる
と言うことではないのです。時には私たちの祈りとは別の結果が与えられることもあります。しかしながら、神様は私たちの人生を「神の御心」に従って最善に導かれるのです。それは、当初私たちが願っていた以上のすばらしい祝福となるのです。

 ではどのように祈ればよいのでしょうか。その祈り方は次の通りです。
@失望せずに祈り続ける事です。「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」とルカ18章1節にある通りです。
A信仰に基づいて祈る事です。「信仰に基づく祈りは・・・主がその人を起き上がらせてくださる」とヤコブ5章15節にある通りです。
B絶えず祈ると言う事です。「絶えず祈りなさい」とTテサロニケ5章17節にある通りです。 

まとめ:
ヒゼキアは死の病から救われて、結局、15年間生き延びました。神が与えて下さった15年間の恵みです。彼は偉大な王として素晴らしい功績を残してこの世を去りました。
 命がけの信仰、直向きな祈り、従順な信仰の歩みは必ず祝福されます。なぜなら、神はあなたの真剣な祈りと涙の叫びを分かって下さり、御心に受け止めて、最善をなして下さるお方ですから。
祝福をお祈り致します。 

2008/02/10(日) 「知られざる神に」 大嶋博道牧師
聖日礼拝 (聖書)使徒言行録17:22〜29

序論:
今朝のメッセージの中心は「キリスト教の神」についてであります。
パウロは第二回目の伝道旅行で哲学の町アテネに立ち寄りました。町には手で造った偶像があちこちに立ち並んでいました。彼は「知られざる神に」と記された祭壇を見たのです。それで、
アテネの人々にその実体を明らかにしようと試みました。それが今朝のテキストに記されています。

 私たちはしばしば実体が分からないような「偶像」を神として信仰します。交通安全の神、安産の神、無病息災の神、商売繁盛の神・・・、さらに太陽や月や星を拝んだり、大木や岩のような大きな対象を神として崇めることがあります。まさに「知られざる神」であります。
しかし、本当の信仰というのは信じる対象の実体がよく分かった上での信仰であります。
アテネの人々は自分たちが信じる対象の実体が分からないまま信仰をしていたので。そこで、パウロは「知られざる神」の実体を明らかにしたのです。

本論:
聖書が示す本当の神について述べて見たいと思います。私たちが信じている真の神とは、
@世界と万物を造られた天地創造の主である神です。(24節)(創世記1章参照)
Aすべての人に命と息を与えられる神です。このお方は私たちにビオス(肉体の命)とゾーエー(人格的命・霊的命)を与えられる神です。
B1人の人からすべての人類を造り出し、季節を 定め、居住地の境を定められる神です。(26節)
C私たちがすぐに見出すことができるほど私たちの近くにおられ、私たちの内(in)におられる神です。(27節)
D私たちは霊的には神の子孫なのです。ですから神は私たちに父なのです。(28節)
E人に悔い改めを求められるお方が私たちの神なのです。(29節)
Fそして、すべての事を最善に導いてくださり、すべての事に配慮してくださるお方が私たちの神なのです。(ローマ8:28参照)

まとめ:
私たちの神は「知られざる神」ではなくてこのように実体をもっておられ、私たちのために働いていてくださる真に生きた神なのです。本当の神を知らないまま、偶像を拝むのではなくて、本当の創造主である真の神に信頼し、このお方に従って信仰生活を送りたいものです。祝福をお祈り致します。  

2008/02/03(日) 「罪を清めるイエスの血」大嶋博道牧師
総員礼拝・聖餐式(聖書)ヨハネ一1:5〜10/ヘブライ9:11〜14

序 論:
 キリスト教の救いの中心思想は「イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦し」であります。聖書はそれを以下のように述べています。
「わたしたちはキリストの血によって義とされた。」ローマ5:9イエスの十字架の死が私たちの罪の赦しと救いの決定的な出来事であったことが明らかにされます。
では、冒頭のテキストが述べている「御子イエスの血によって罪から清められる」という思想はどこに由来するのでしょうか?

(1)出エジプトの際の過越(すぎこし) (出エジプト12:1〜13)
神の審判を逃れるために、動物(傷のない羊・山羊)を屠り、その犠牲の血を家の柱と鴨居に塗る。
(2)罪を贖う「焼き尽くす献げ物」(レビ記1:1〜5)
 イスラエルの民が罪を犯した時には、神の怒りを宥め、罪が赦されるために動物が犠牲として献げられた。神との和解には必ず動物の血が流された。
(3)贖罪日「ヨム・キプール」に二匹の雄山羊が犠牲に用いられた(レビ16:5〜11)
雄山羊の一匹を「主のもの」として贖罪の献げ物に用いる。「アザゼル」の雄山羊を、イスラエルの人々の罪責と背きと罪を雄山羊の上に移し、荒野に放つ。
(4)旧約の「動物の犠牲の血」にまさる「イエスの血」
 ヘブライ人への手紙の著者は、旧約の動物の犠牲の血と新約のイエスの血を対比して、「イエスの血はあらゆる罪を清める」と。(ヘブライ9:11〜15参照)

 本 論:
以上から導かれる「信仰生活」で大切なことを幾つか述べたいと思います。
(1)イエス・キリストの一回限りの十字架の贖いの死だけが、人類に救いをもたらす。イエス・キリストの十字架は「一度限り(ハパックス)」の出来事であり、それは人類の罪を贖うのに十分で完全なものなのです。

(2)主イエス・キリストの“血の力”の影響力は無限である。
 罪と死からの解放の力があります。罪の赦しは「命」によって贖われるのです

(3)信仰生活は贖いの血によって成立する。私たちは動物の犠牲を献げる必要は全くなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救いを受けることが出来るのです。

(4)いのちを捨ててくださったお方に応える生き方
 イエス・キリストの十字架に基づくキリスト者の生き方があります。それは、
@一途にこのお方に信頼し、信仰に生き抜くこと。
A日々、喜びと感謝に溢れ、賛美と祈りのうちに生活すること。
 Bこのお方を証ししながら、神の栄光をあらわす生き方をすること。
 C神の真実な愛に応えて行いをもって誠実に愛し合う生活。
Dすべてのことは神が共に働いて最善に導かれるという確信に生きる。

まとめ:
 私たちの罪を清めるのは旧約における動物の犠牲によるのではなく、ただ、イエス・キリストの十字架において流された「血」のみが私たちの罪を清め、神の子とする力なのです。私たちは心から信仰によってこの聖なる事実を受け入れたいものです。


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