|
2008/02/03(日)
「罪を清めるイエスの血」大嶋博道牧師
|
|
|
総員礼拝・聖餐式(聖書)ヨハネ一1:5〜10/ヘブライ9:11〜14 序 論: キリスト教の救いの中心思想は「イエス・キリストの十字架の贖いによる罪の赦し」であります。聖書はそれを以下のように述べています。 「わたしたちはキリストの血によって義とされた。」ローマ5:9イエスの十字架の死が私たちの罪の赦しと救いの決定的な出来事であったことが明らかにされます。 では、冒頭のテキストが述べている「御子イエスの血によって罪から清められる」という思想はどこに由来するのでしょうか?
(1)出エジプトの際の過越(すぎこし) (出エジプト12:1〜13) 神の審判を逃れるために、動物(傷のない羊・山羊)を屠り、その犠牲の血を家の柱と鴨居に塗る。 (2)罪を贖う「焼き尽くす献げ物」(レビ記1:1〜5) イスラエルの民が罪を犯した時には、神の怒りを宥め、罪が赦されるために動物が犠牲として献げられた。神との和解には必ず動物の血が流された。 (3)贖罪日「ヨム・キプール」に二匹の雄山羊が犠牲に用いられた(レビ16:5〜11) 雄山羊の一匹を「主のもの」として贖罪の献げ物に用いる。「アザゼル」の雄山羊を、イスラエルの人々の罪責と背きと罪を雄山羊の上に移し、荒野に放つ。 (4)旧約の「動物の犠牲の血」にまさる「イエスの血」 ヘブライ人への手紙の著者は、旧約の動物の犠牲の血と新約のイエスの血を対比して、「イエスの血はあらゆる罪を清める」と。(ヘブライ9:11〜15参照)
本 論: 以上から導かれる「信仰生活」で大切なことを幾つか述べたいと思います。 (1)イエス・キリストの一回限りの十字架の贖いの死だけが、人類に救いをもたらす。イエス・キリストの十字架は「一度限り(ハパックス)」の出来事であり、それは人類の罪を贖うのに十分で完全なものなのです。
(2)主イエス・キリストの“血の力”の影響力は無限である。 罪と死からの解放の力があります。罪の赦しは「命」によって贖われるのです
(3)信仰生活は贖いの血によって成立する。私たちは動物の犠牲を献げる必要は全くなく、ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって神の救いを受けることが出来るのです。
(4)いのちを捨ててくださったお方に応える生き方 イエス・キリストの十字架に基づくキリスト者の生き方があります。それは、 @一途にこのお方に信頼し、信仰に生き抜くこと。 A日々、喜びと感謝に溢れ、賛美と祈りのうちに生活すること。 Bこのお方を証ししながら、神の栄光をあらわす生き方をすること。 C神の真実な愛に応えて行いをもって誠実に愛し合う生活。 Dすべてのことは神が共に働いて最善に導かれるという確信に生きる。
まとめ: 私たちの罪を清めるのは旧約における動物の犠牲によるのではなく、ただ、イエス・キリストの十字架において流された「血」のみが私たちの罪を清め、神の子とする力なのです。私たちは心から信仰によってこの聖なる事実を受け入れたいものです。
|
|
|